黒い雨
死ぬために、生きているのではありません。
1989年 モノクロ シネマスコープ 123min 今村プロダクション、林原グループ
製作 飯野久 企画 高島幸夫、小林俊一 監督、脚本 今村昌平 脚本 石堂淑朗 原作 井伏鱒二
撮影 川又昂 音楽 武満徹 美術 稲垣尚夫 照明 岩木保夫 編集 岡安肇 録音 紅谷愃一
出演 田中好子、北村和夫、市原悦子、沢たまき、三木のり平、小沢昭一、小林昭二、 原ひさ子
立石麻由美、山田昌、石田圭祐
原爆による黒い雨を浴びたために人生を狂わせられてしまった女性と、それを暖かく見守る叔父夫婦とのふれあいを描く。ベストセラーとなった井伏鱒二原作の同名小説を『豚と軍艦』『復讐するは我にあり』『女衒』『楢山節考』など常に問題作を送り続けてきた今村昌平監督は、原作が刊行された当初より念願していた映画化を実現した。脚本も手掛けた今村監督は「映画とは人間そのものを描く事に他ならない」という自身の映像理念の集大成として挑んでいる会心の作品となっている。共同脚本は『ジャズ大名』の石堂淑朗、撮影は『砂の器』など野村芳太郎監督と名コンビを組み、小津安二郎監督の下で今村監督と助手時代を過ごした川又昂がモノクロームの落ち着いた美しい映像を作り上げている。スタッフをベテラン陣が固める中、美術を新鋭・稲垣尚夫が務め広島の焼け跡を見事に再現している。また音楽を、現代音楽の巨匠『乱』の武満徹が書き上げている。壮絶な人生を歩む事となる主人公を演じたのは映画初主演となる田中好子と今村監督作常連の『にっぽん昆虫記』の北村和夫、その他にも市原悦子、三木のり平、小沢昭一ら演技派が脇を固めている。
昭和20年8月6日、広島に原爆が投下された。その時郊外の疎開先にいた高丸矢須子は叔父・閑間重松の元へ行くため瀬戸内海を渡っていたが、途中で黒い雨を浴びてしまった。20歳の夏の出来事だった。5年後矢須子は重松とシゲ子夫妻の家に引き取られ、重松の母・キンと4人で福山市小畠村で暮らしていた。地主の重松は先祖代々の土地を切り売りしつつ、同じ被爆者で幼なじみの庄吉、好太郎と原爆病に効くという鯉の養殖を始め、毎日釣りしながら過ごしていた。村では皆が戦争の傷跡を引きずっていた。戦争の後遺症でバスのエンジン音を聞くと発狂してしまう息子・悠一を抱えて女手一つで雑貨屋を営む岡崎屋。娘のキャバレー勤めを容認しつつ闇屋に精を出す池本屋。重松の悩みは自分の体より、25歳になる矢須子の縁組だった。美しい矢須子の元へ絶えず縁談が持ち込まれるが、必ず“ピカに合った娘”という噂から破談になっていた。重松は疑いを晴らそうと矢須子の日記を清書し、8月6日に黒い雨を浴びたものの直接ピカに合っていないことを証明しようとした。やがて庄吉、好太郎と相次いで死に、シゲ子が精神に異常をきたした。一方、矢須子はエンジンの音さえ聞かなければ大人しく石像を彫り続けている悠一が心の支えとなっていった。しかし、黒い雨は時と共に容赦なく矢須子の体を蝕み、やがて髪の毛が抜け始めたのだった。
アメリカが投下した原爆は、一瞬で広島を消滅させ、一度に大量の非戦闘員である一般市民を死に至らしめた。本作のタイトルとなっている“黒い雨”は、その時に舞い上がった灰が、直撃を逃れた人々の頭上に降り注いだ雨を指している。映画は昭和20年8月6日から始まる。いつもと変わらぬ夏の朝、空からゆっくりと落下傘が落ちてくる光景が映し出される。電車に乗って仕事に向かう人々…電車が発車しようとした次の瞬間、人々を襲う凄まじい爆風。市街には黒こげの死体が転がり、焼けただれた皮膚を引きずりながら兄を探す少年が歩き回る…。今村昌平監督は、地獄の如き光景をリアルに描写…画面全体から今村監督の原爆に対する怒りがひしひしと伝わってくる。広島に原爆が投下された時、空高く舞い上がった灰や放射性物質が多量に含まれたコールタールのような粘着力のある雨…このシーンを観た時はさすがに背筋が凍った。皮膚に付着したそれは、拭っても拭っても落ちず、ゆっくりと人々の体に浸透し蝕んで行く恐怖は想像を絶する。ナチスは、この戦争で大量のユダヤ人を毒ガスの出るシャワー室で虐殺したが、この“黒い雨”はアメリカによる大量虐殺のシャワー…とあえて言わせてもらう。一体この死のシャワーで何人の人間が命を落としたのだろうか。時が経ちようやく普通の生活に戻りかけたところで隣人が突然、血を吐いて死んでしまう。次は自分の番か?と畏れおののきながら…自分にもその順番は回って来るのだろうか?と息を殺して死に神が自分を通り過ぎてくれるのを祈って待つ無限地獄。今村監督が表現手法として採用したモノクロ映像は効果的であり、服や顔に降りかかった“黒い雨”が点々と黒いシミとなって絡みついてくるシーンはカラー以上に不気味さを醸し出すことに成功している。
しかし、悲劇はそれから数年を経て、意外な相手から意外な形で与えられる。同じ敗戦国の日本人でありながら、被爆者(劇中の言葉を借りれば“ピカにあった者”)に対して差別があったという事だ。田中好子演じる主人公・矢須子は、直接被爆はしていないのだが、投下直後の街を歩いたというだけで被爆したという噂がたつ。被爆者に対して同情はしても、自分の身内として迎え入れるのは別の話し…という現実に筆者は、少なからずもショックを受けた。いつ原爆症が発生するか分からない人間を自分のところの嫁として入れる事は、とんでもない…と次々と縁談を断られてしまうのだ。かつて、今村監督は『にっぽん昆虫記』でも同様に日本の土着的農村の閉鎖的な風景をモノクロ映像で描き上げた。黒と白の映像世界では、役者の技量(特に表情)が明確に現れて、ごまかしが利かないと常々思っているが、本作の出演者は、人間の奥深いところに潜む本質を見事に表現している。特に、これが映画初主演とは思えない抑制の効いた素晴らしい演技を披露した田中好子は、本当に良い女優だと思う。自分のせいではないのに、被爆した女性というだけで、差別的な扱いを受ける。親代わりの叔父(常連の北村和夫が最高)が意地になって縁談相手を探す度に、より厳しい現実が見えてくるのだ。そんな現実を直視しながらも、グッとこらえる無表情には、矢須子が持つ全ての感情(悲しみや怒り…そして諦め)が詰まっているのが痛々しい程伝わってくる。結局、矢須子は原爆症を発症してしまうのだが、ラスト、トラックで病院へ運ばれてゆく彼女を見送る叔父の姿が忘れられない。
「今、もし、向こうの山に虹が出たら奇蹟が起る。白い虹でなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」ラスト、病院へ搬送される矢須子を見送りながら神にすがる思いで、原爆症が治る事を祈る重松の気持ちが胸に突き刺さる。
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