日本が誇る名バイプレイヤーは誰かと言えば、間違いなく筆頭に挙げられるのが、宇野重吉だ。しかし、それはあくまでも映画やテレビドラマでの話。“劇団民芸”という新劇を率いる舞台役者である俳優・宇野重吉の活動の中心は舞台にあった。それだけに戦後間もない頃、宇野が演技を語る際には、かなり映画やテレビに対して辛辣な意見を述べている。自身の著書にも記されているが、客席に座っている観客を前に演じるのとテレビカメラ(テレビの向こうにいる顔が見えない視聴者)を前に演じるのとでは演じる側の気持ちは明らかに異なる。最初の頃は、演技を分断される事にかなり違和感を感じていたらしいが、次第に舞台とは異なる演技手法に興味を抱くようになったと著書に記されている。福井県の山深い農家に生まれた宇野が演劇に興味を抱くようになったのは日本大学に入学する辺りからで、14歳の頃から読みあさった文学書の数々に影響され、劇作家を志すようになった。「自分が書いた戯曲を自分が好きな俳優が上演する」夢を抱きながら日大の演劇科に通う。昭和7年、実際の芝居を体験するために築地の研究所から左翼劇場へ入り、群集の一人から少しずつ役がつき始める。研究所に入って三年目で初めて“五稜郭血書”という芝居で出演料を貰うまでは、劇場の客席に寝泊まりする生活を続けていたという宇野が“劇団民芸”の前身である“劇団民衆芸術劇場”を設立したのは昭和22年。旗揚げ興行は“破戒”であった。既にこの頃から映画会社との結びつきは強く原節子主演の『安城家の舞踏会』が好評で松竹から次回作『わが生涯のかがやける日』の出演依頼も来ていたほどだ。当時、新劇の世界で生きる人たちにとっては、映画に出る俳優は邪道という風潮があり、宇野を筆頭に“劇団民衆芸術劇場”は堕落した集団と陰口を言われていた。しかし、『わが生涯の輝ける日』では同劇団員であった森雅之を始め、大滝秀治、内藤武敏、奈良岡朋子等、劇団総出演を果たす。この作品の監督である吉村公三郎は撮影が半分を過ぎた頃に「宇野君、他の人たちがゴッテリ芝居をしている中で、君みたいにサラサラやっていたのでは、君の役は吹っ飛んじまうよ」と文句を言われたというエピソードがある。しかし、宇野は「はい」と返事だけしておいて、最後まで自分の演技スタイルを貫き通した。そして、この映画の撮影中にセットにやってきてはカメラを覗いたりセットの片隅で考え事をしていた男がおり、それが脚本を手掛けていた新藤兼人であり、その数年後に二人は『原爆の子』にて再会することとなる。映画の収入によって劇団の財形を維持し、それを芝居に充てるというやり方には相変わらず、他の劇団から批判の目に曝されていたが、その悪評に対して劇団内部でも動揺が起こり“劇団民衆芸術劇場”は昭和24年に解散する。そして宇野は、その時に生じたゴタゴタを二度と起こすまいと心機一転、翌年には自らが主宰する“劇団民芸”を創設する。
そこから更に宇野は着実に映画、舞台、テレビと活動の場を広げ、どの役を演じても圧倒的な存在感を見せながらも決して主役を喰うことはない個性派俳優として親しまれていた。マイペースで些細な周囲の雑音なんか全く気にしない一本筋の通った役が実にピッタリはまっていて、シリアスな社会派よりも、どちらかと言うとコメディに出演された作品の方が個人的に好きである。痩せた体系がインテリジェントの風格を醸し出しているから、先生と呼ばれる役が自然と多い。彫りの深い精悍な顔だちと飄々とした独特な言い回しは、静かな迫力を帯びている。それが顕著に表れたのが『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で演じた人間国宝・静観役だ。本作は、宇野の魅力を最大限に引き出した傑作と言っても良いだろう。最初はしょぼくれた身寄りのない老人のような立ち振る舞いで“とらや”の住人の怒りをかっていたのだが、ひとたび筆を手にしたとたん眼光鋭くなるところに鳥肌が立った。宇野は渥美清のように破天荒なキャラクターが主役だと、きっちり主役の演技を拾ってあげて、尚かつその面白さを引き立てる懐の深さを持っているのだ。映画ではないがテレビドラマ“池中玄太80キロ”でも西田敏行演じる主人公の師匠役で、めちゃくちゃ濃いキャラクターの西田の演技をしっかりと受け止めていたのが印象に残る。主人公との落差があればあるだけ、宇野の飄々、朴訥とした演技から主人公の面白さ、可笑しさがより倍増して引き立つのである。
常々、ヨーロッパ映画で少年少女が大きな役割を担っている事に、「廃業にされた自国の現実を見つめ、これからの事を案じれば、どうしても子供たちを通じて祈らずにはおられないからであろう」と言及していた宇野は、日本でも戦後に作られた『山びこ学校』について、「大人が今何をしなければならないか考えるためにも子供を描いた映画は少しでも多く作られた方が良い」と語っている。そういう思いで完成した『原爆の子』は、まさに屈託の無い表情で健気に生きている被爆者となった子供たちの姿が描かれており、その分、戦争の悲惨さが浮き彫りにされていた。1952年『原爆の子』の製作を“民芸”が全面的にバックアップされて自らも出演した宇野はこの作品で主人公が探していた元教え子の兄を演じている。まさに主人公が訪ねてきた日は長女が嫁ぐ日で、宇野は切々と原爆のため片足が不自由になった妹の行く末を主人公に語る。原爆に対する思い以前に生き残った家族を案じる彼のセリフに言葉少ない本作のメッセージが凝縮されていた。そして、水爆実験に遭遇したため被爆した漁船の乗組員のその後を描く問題作『第五福竜丸』で被爆して命を落とす主人公・久保山を演じる。宇野は本作において、放射能によって体が蝕まれてゆく姿を見事に体現。穏やかな普通の男が、水爆実験の被害者となり絶命する悲劇が、宇野ならではの抑制の効いた演技によって明確に観客の心に伝えていた。
最後に宇野重吉が自身の著書『光と幕』の中で映画における演技について印象的な発言をされていたので紹介したいと思う。映画は、俳優の演技が上手くない場合に、個性だけを生かして下手な部分はカメラアングルを操作してゴマかす事が出来る。演技とは“俳優自身の意志”で、自分とは別の“生きた人間”を再生産することである。俳優自身の意志によらないものは、それがどう見た目に感じられようと、それは表現ではない。偶然そのように撮影されたとしても、それは俳優が創ったものではない…と言うのだ。演技をひとつの芸術として見るからこそ、意識的な演技以外の偶然から成る演技は認めていなかったのだろう。
宇野 重吉(うの じゅうきち)JUKICHI UNO 本名:寺尾 信夫(てらお のぶお)
1914年9月27日生まれ1988年1月9日没。福井県足羽郡下文殊村(現在の福井市)生まれ。
滝沢修らと共に劇団民藝の創設者であり、第二次世界大戦前〜戦後にかけて、長く演劇界をリードしてきた歴史に名を残す俳優である。リアリズムを基調とした近代的な芸を追求していた。芸名は、中野重治と鈴木三重吉に由来している。
旧制福井中学(現・福井県立藤島高等学校)を経て日本大学芸術科に進む。1932年、築地小劇場の左翼劇場と新築地劇団の合同公演で初舞台。大学を中退して、東京左翼劇場に入る。1934年、新協劇団の結成に参加。1941年から1943年には、瑞穂劇団に参加。戦後となった1946年に第二次新協劇団に加入。1947年に第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を創設。それが1947年に内紛で解散した後、ついで1950年に劇団民藝を創設。ロシアのチェーホフなどのヨーロッパ各国の劇を演じ、たちまち新劇のリーダー的存在となる。中国や近代日本の題材なども扱い、確かな演技力と斬新な演出により、民藝を国内有数の劇団に育て上げた。モットーは「芝居でメシの食える劇団」。1946年には、有馬稲子や新珠三千代などのスターを起用して、話題にもなった。
1954年、製作再開した日活が5社協定の締め出しによって出演俳優不足に悩んでいた際は民藝と提携契約を締結。多くの劇団俳優を日活映画に出演させ、自身も出演した。1964年には、大河ドラマ『赤穂浪士』の蜘蛛の陣十郎役で、茶の間の人気者に。舞台にとどまらず、テレビや映画でも幅広く活躍した。後年は飄々とした老人役で好評を得た。1971年には「劇団は創立者だけの物である」という劇団一代論を発表して演劇界に衝撃を与える。1981年には紫綬褒章を受章。
1985年9月からは、宇野重吉一座をたちあげ、気軽に芝居を観に劇場に来られない地方の人のために、地方公演をはじめる。晩年は癌と戦いながらも地方公演を続けていたが、三越劇場での『馬鹿一の夢』が最後の舞台となった。
長男は俳優の寺尾聰。石原裕次郎の生涯を描いたテレビドラマ『弟』(テレビ朝日系列で2004年11月に放映)では寺尾が父・宇野を演じた(石原裕次郎と共演した清酒のCMのシーン)。 1976年に、『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で親子共演を果たす。(Wikipediaより一部抜粋)
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