原爆の子
原爆投下から7年後の広島で、かつての教え子たちと再会した主人公は被爆者たちの叫びを聞く。
1952年 モノクロ スタンダード 99min 近代映画協会、民芸
製作 吉村公三郎 監督、脚本 新藤兼人 撮影 伊藤武夫 音楽 伊福部昭 美術 丸茂孝 原作 長田新篇
出演 乙羽信子、滝沢修、宇野重吉、山内明、清水将夫、細川ちか子、斎藤美和、下元勉、北林谷栄
伊東隆、寺島雄作、英百合子、伊達信、高野由美、多々良純、小夜福子、殿山泰司、東野英治郎
世界で最初に原爆の洗礼を受けた広島の原爆の子供たちがつづった作文を編集したヒロシマ・ピースセンター理事長、広大教授長田新の“原爆の子”にヒントを得て、新藤兼人が『雪崩(1952)』に次いで自身脚色、演出を行っている。当初、同時期に撮影されていた『ひろしま』を監督するはずだった新藤が、製作総指揮に当たっていた日教組の考え方と意見が合わず、『ひろしま』を降板して本作を手掛ける事になった。製作には吉村公三郎が当たり、近代映画協会と劇団民芸が資金の面でバックアップを行い、原爆投下そのものよりも、被爆症で苦しんでいる現在に生き残った人々の苦痛を描く事で原爆の悲惨さを訴えている。撮影は『山びこ学校』の伊藤武夫、壮大なイメージの音楽は『ゴジラ』の伊福部昭が当たっている。『安宅家の人々』の乙羽信子が好意的主演をする他、細川ちか子、清水将夫、滝沢修、北林谷栄、小夜福子、宇野重吉などの民芸の人々が出演している。本作はアメリカ軍が占領を終結すると同時に待ちかまえていたかのように製作を開始し、広島市民が全面的に協力をしていた他、出演者も殆どが奉仕的に熱演していた。
石川孝子(乙羽信子)は昭和20年8月6日原爆が投下された時広島に住んでいて、家族の中で彼女一人だけが生き残った。その後瀬戸内海の小さな島で女教員をしていた孝子は、原爆当時勤めていた幼稚園の園児たちのその後の消息を知りたいと思い、夏休みを利用して久しぶりに広島を訪れた。街は美しく復興していたが、当時の子供たちは果たしてどんなふうに成長しているだろうか。幼稚園でともに働いた旧友の夏江(斎藤美和)から住所を聞いて次々と訪問していく孝子だった。三平も敏子も平太も中学生になっていた。三平は子だくさんな貧しい父母の元で、靴磨きをして家を助けていた。敏子は孤児の彼女は教会に引き取られて、原爆症が発症して正に命の灯が消えかけていた。平太も親を失って兄や姉の手で養育されていたが、一家は明るくまじめに生き抜いていた。孝子は亡き父母の下で働いていた岩吉爺や(滝沢修)に出会ったが、息子夫婦を原爆で失い、老衰し、物乞いをする日々を送り、七歳になる孫の太郎と乏食小屋で暮らしているのだった。孝子は二人を島へ連れていこうとしたが、どうしても承知しないので太郎だけでも引き取りたいと思った。初めは承知しなかった岩吉も、孫の将来のためにようやく太郎を手離すことにして、嫌がる孫を諦めさせるため、その晩、家に火を放ち自ら命を絶つのだった。孝子は広島を訪れたことによって色々と人生勉強をし、また幼い太郎を立派に育てようという希望を持って島へ帰っていくのだった。
原爆が投下されてから、まだ10年も経っていない、わずか7年後に製作された本作。ここで映し出される広島の風景は、セットでも合成でもない現実に“そこに”存在しているものだ。本当に、この場所に大きな街があったのか…?とさえ思ってしまう。それでも、僅か数年で焼け跡を埋め尽くすかのように無数に建ち並んだバラックの屋根を見ると人間の強さを感じる。広島から離れて親戚が住む瀬戸内海の島で生活をしていた主人公が、原爆投下の日から何年かぶりに広島へ戻るところから物語は始まる。小さな漁船で島から広島湾に入り、川をさか上って行くまでがタイトルバックとなっているが、“広島はどのようになっているだろうか…”という主人公の複雑な心境が観客側にも伝わってくるオープニングだ。数年ぶりに広島の地に立った主人公の脳裏に忌まわしい投下の日の出来事がフラッシュバックで蘇る。8時15分…運命の時が近づいているのも知らない子供たちの無邪気な笑顔が映し出される。何も説明はいらない…子供たちを包む閃光とキノコ雲。モノクロ映像で表現される原爆投下の瞬間は、どんなにCGが発達した現代でも、これ程、背筋が凍る映像は作り出せないだろう。勿論、新藤兼人監督という作家が持つ表現力のセンスに依るところが大きいが、それよりも原爆が投下されて間もない時代の空気が大きく影響しているのは間違いない。(果たして、現在の新藤監督が同じように、作り出せるだろうか…)
広島で幼稚園の先生をしていた主人公は、3人の教え子が生きていると知り再び広島に戻るという設定。彼女の体には未だにガラスの破片が残っており原爆を忘れないために、そのままにしている…その反面、彼女は被爆した時の記憶を出来るだけ忘れたいとも語る。原爆に対する“怒り(=忘れまいとする自分)と恐怖(=忘れようとする自分)”を常に同居させているのだ。被爆者した方々の心境は皆、同じなのではなかろうか。そう思うと、毎年“原爆の日”にどういった思いで平和記念公園にやってくるのか心中を察すると、同じ国民として胸が痛む。印象に残るのは、何も無くなった広島で走り回る子供たちの背後…はるか彼方に必ず“原爆ドーム”がフレームインされている事だ。多分、これは新藤監督が確信犯的に、そうした絵になるようにアングルを決めているのだろうが、どの角度からでも収まる程、広島の街は一掃されてしまったのである。元気に走り回る子供と悲劇の象徴である“原爆ドーム”が余りにも対象的で、悲しみと怒りが同時に湧き上がってくる。子供の一人は原爆症のために、正に命を落としかけており、会いにきた主人公に笑顔で喜ぶシーンがある。外傷もなく7年も経った頃に死が襲ってくる見えない恐怖…それでも、笑顔を見せる少女の姿が忘れられない。少女のように死の淵に立つ者、父を亡くした者、被爆しながらもささやかな幸せに向かって歩み出す姉を送る者…原爆の日を境に、明らかに運命が変わってしまった子供たち。こうした子供たちは世界各地にいる事を忘れてはならない。そして、考えるのが大人の役目なのだ。その大人が原爆を作り出していては話にならない。ラストで広島の空を飛ぶ飛行機の音に心配気に見上げる主人公を演じた乙羽信子の表情が印象に残る。
「あの日、この銀行の石段に腰掛けてもの思いに沈んでいた名も知れぬ人…強烈な放射線に焼き付けられて、未だにここで考えています」石段に焼き付いた人の影…主人公のモノローグが哀しく切なく響く。
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