初めて手塚眞の名前を目にしたのは監督としてではなく大林宣彦監督作品の『ねらわれた学園』で未来人に操られるガリ勉役の俳優だった。手塚という名字から漫画家・手塚治虫の息子である事は、映画を観る前から既に知っていた。俳優としての手塚眞は取り立てて印象に残る事もなく、恥ずかしながら当時は彼が実験映画をいくつも撮っている等と知る由もないままだった。監督として手塚眞の名前を目にするのは、それからしばらく経った『妖怪天国』という1時間ちょっとの中編オムニバスのビデオ映画だった。幼い頃から妖怪ものや怪獣ものに熱中していた彼は大映の名作『妖怪百物語』や『妖怪大戦争』をモチーフとした作品を作り上げてしまったのだ。短いながらも見応え充分の力作で、伊武雅人が主人公の“河童”は妖怪ものと怪談をミックスさせた内容で、かなり怖かったのを記憶している。彼の著書“VISUALIST”で「鉄腕アトムには目もくれず、ウルトラQばかりを楽しみにしている息子を父・治虫は寂しそうに見ていた」とあるが、そうした幼少期に培った思いが映像の世界で開花したわけである。ちなみに、パール兄弟の“鉄兜の女”プロモーションビデオもウルトラQを彷彿させるイメージで描かれていたのが面白かった。幼い頃から将来の夢を「映画になりたい」(制作者とかではなく存在そのものが映画のような…という意味)と答えていた彼は様々な怪獣映画と怪奇映画をテレビで放映されるたび、かじりついて見ていたという。その頃見ていた怪奇映画が手塚眞に映画のセオリーやAtoZを教える教科書となったのは言うまでもない。また、彼を取り巻く家庭環境が多大な影響を与えた事は間違いないだろう。父・手塚治虫のアニメーションスタジオが自宅に隣接しており、そこを遊び場にしている内に、映画作りを身近に感じていたと著書の中で語っている。
手塚眞が初めて自主映画を作ったのは高校2年の時。学生だった大森一樹や石井聰互が自主映画を世に送り始めた時だ。学校の映画研究部に所属しながらも、映画の撮り方なんか全く解らなかった手塚は2年になるまで上級生が作る映画のスタッフとして参加しているだけだった。しかし、初めて監督した『FANTASTIC☆PARTY』という8ミリ長編は学園祭で上映されると、たちまち評判となり、街の名画座で一般公開された程だ。更には“日本映像フェスティバル”で特別賞を受賞。この作品で手塚はどのジャンルにも属さない映画を作り上げようと様々な試みを盛り込もうとしていた。残念ながら自分が思い描いた内容から妥協せざる部分も多く、そこで映画という総合芸術の難しさに直面する。手塚は長編映画を作る一方で、自分一人で『UNO』という15分程の短編映画を撮り始めた。シナリオの存在しない、少女の視点から進展する物語は、正にその後の手塚眞を象徴する第一歩だった。こうした短編映画を経て昭和50年に再び劇映画に挑む。手塚が手掛けた『MOMENT』は75分の中にありとあらゆる技術的実験と演出的実験を取り入れた学生映画と呼ぶには規模が違いすぎる作品となっていた。ホールで開催されたプレミア試写には8ミリ映画では類を見ない500人以上の観客が列を作ったという。ところが、この劇映画の成功にも関わらず、またしても手塚は1年もかけて、実験的な映画を作ってしまう。『Shelly』という映画は男女二人を無音で映し出す…その中にはストーリーらしきものは存在しない。完全無料で行われた上映会では複数の映写機から投影してみたり、会場の明かりを点滅させたりと異質な上映方法によって、従来の映画館の概念まで破壊してしまった。続く16ミリの長編『Sph エスフィ』は観客の想像力を刺激して喚起させるために説明やセリフを極端に排除していた。都会に住む妖精というテーマに沿った映像があるだけで、後は全て観客に委ねる…言わば“観客が作る映画”に挑戦したのだ。
映画監督という肩書きを避けて「ヴィジュアリストである」と宣言している手塚眞。映画に関わるひとつのセクションに捕らわれるのではなく、あらゆる映像を司る立場の人間…それは「映画になりたい」と夢見ていた手塚眞らしい職業だ。そして、ヴィジュアリスト手塚眞が手掛けた最初の商業映画が、ロックミュージカル『星くず兄弟の伝説』。その14年後、構想から完成まで10年を費やした浅野忠信主演の意欲作『白痴』を発表。ヴェネチア国際映画祭でデジタル・アワードを受賞するという快挙を成し遂げる。ストーリーを追おうとすると破綻してしまいそうな抽象的な作品が多かった手塚作品の中ではパラレルワールドの絶望的な日本(過去か未来かは不明だが…)で生きる気力を失った男と白痴の女を描いた本作は比較的分かりやすい作品であった。ヴィジュアル面においても今まで手塚が大事に暖めてきただけに彼の集大成と言っても良い程。特に空襲で荒廃した街と軍国主義的な国営テレビ局の映像は幼い頃に見た“ウルトラシリーズ”のイメージが色濃く反映されていたように思われる。興行的には成功とは言えないまでも、日本映画界におけるパラレルワールドを描いたジャンルのエポック・メイキングとなったのは間違いない。続く翌年に発表した40分程の中編『実験映画』は今まで作り続けてきた手塚の実験映画に対する姿勢や思いを表した興味深い劇映画となっていた。永瀬正敏演じるカメラマンが橋本麗佳扮する少女を廃墟で撮影する光景を追うというストーリーはある種のホラー映画のようでもある。(ここでも幼い頃に観ていた怪奇もののイメージが投影されていた)そして、2002年に発表したオリジナル『ブラックキス』と父・手塚治虫の名作“ブラック・ジャック”のアニメ『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』によって手塚眞ネクストステージに突入したように思われる。前者は今まで使ってきた手法を敢えて封印(幻想的な映像や回想シーンの挿入など)して現実的な作品に仕上げていた。そして、後者(実は一番、この作品の監督した事が驚いたのだが)…ブラック・ジャック連載開始30周年を迎えたこの年に、アトムと双璧の人気キャラクターにスポットを当てるべく映画化を考えたという。実写化も構想していたが、原作から離れてしまうと思い、劇場用長編アニメの制作に踏み切った。かつては「アニメやマンガには手を出さない」と公言していた手塚眞だけに本作の監督を手掛けた事はかなり異例であった。そのおかげでアニメ専門の監督とは異なったアプローチで新しいブラック・ジャック像を本作で観る事が出来る。
手塚 眞(てづか まこと、本名:真)MAKOTO TEDUKA 1961年8月11日 生まれ
手塚治虫の長男として生まれ、現在はヴィジュアリストという肩書きで、映画監督など、映像全般に関わるクリエーター。株式会社手塚プロダクション取締役、有限会社ネオンテトラ代表取締役。東京工科大学メディア学部客員教授。父は漫画家の手塚治虫、妹はプランニングプロデューサー・地球環境活動家の手塚るみ子、妻は漫画家の岡野玲子。父である治虫からは「マコ」と呼ばれ、『マコとルミとチイ』の登場人物マコのモデルとなっている。
小学校から高等学校まで成蹊学園で過ごす。小学生時代より妖怪が大好きで1986年には父・手塚治虫、水木しげる、馬場のぼる、楳図かずお、他出演の『妖怪天国』を監督。またテレビでは虫プロダクションが制作した『W3』よりも裏番組の『ウルトラQ』を好み、母親が『W3』を見るよう促した際に父・治虫が「子供の好きなものをみせてやりなさい」と『ウルトラQ』を観せた逸話があるという。
成蹊高等学校在学時に制作した『FANTASTIC★PARTY』で一躍注目される。日本大学藝術学部映画学科に入学するも、後に中退。その後も数多くの映像作品を制作する。1981年に、薬師丸ひろ子主演の映画『ねらわれた学園』に俳優として出演もしている。1993年に個人事務所ネオンテトラを設立。1999年に公開された『白痴』がヴェネチア国際映画祭に招待され、デジタル・アワードを受賞。『白痴』撮影時には、新潟市美咲町に巨大なオープンセットを建設、市民によって運営されるミニシアター「新潟・市民映画館シネ・ウインド」を始め、多くの有志がボランティアで撮影に参加する。現在もシネ・ウインドや市民に映画撮影のノウハウを講義する「にいがた映画塾」、「安吾の会」などの活動に大きく関わっている。2007年よりニコニコ動画が主催する「国際ニコニコ映画祭」の審査委員長を務める。現在、主にイベントやマルチメディアプロデュースをする他、執筆活動も手がけている。 (Wikipediaより一部抜粋)
(手塚眞“ネオンテトラ”公式HP http://www.neontetra.co.jp/)
(手塚眞 公式ブログ http://tzk.cocolog-nifty.com/)
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