映画における照明の役割について、一般の観客は、どの程度の知識を持っているだろうか。スタジオやセット撮影の際に俳優の表情や場面のイメージに合ったライティングによって朝・昼・晩といったシチュエーションを作り出す。確かに何となく照明という仕事がどういうものかは認識していても、光の出来次第で、その場面のイメージがガラリと変わってしまう…という事までは大半の人々は理解していないだろう。しかし、照明の役割はそんな単純なものでは無い。その中で、登場人物が動き回るわけであるから、その動きも計算に入れた照明のポジションも考えておかないと、俳優の顔に変な影が出来てしまうのだ。「まずは場面のイメージを作り上げて、次に俳優さんの動きを監督とカメラマンの三人で擦り合わせして、その光がちゃんと顔に当たるように作って行くのが照明の仕事なのです。」と、『夜叉』『RAMPO』『東京日和』において3度の日本アカデミー賞照明賞を受賞した日本映画界を代表する照明技師・安河内央之は語る。戦後の日本映画全盛期を支えて来た照明界の第一人者・熊谷秀夫に師事し、『居酒屋兆治』にて一本立ちをして以来、常に“光と影を操って画(え)をどのように成立させるか”を考え、室内だけではなくオープンロケ撮影でも数々の斬新なアイデアを現場に持ち込み、実現不可能と思われるようなライティングイメージを作り上げて来た。更に、日本映画に革新的な照明技術―蛍光灯ライティングを開発し、その功績から“蛍光灯ライティングの伝道師”と呼ばれ、現在では当たり前のように撮影現場で使用されている蛍光灯が生み出す自然で柔らかい光のパイオニア的存在として、ひとつの時代を築き上げた。

 初めて蛍光灯ライティングを採用した『1999年の夏休み』以降、幾つものCM製作の現場からもお呼びが掛かるほど反響があったという。それ以前の照明の場合、電力と人手が掛かり、夏場の室内撮影はクーラーでは補い切れないほど…正に熱地獄のような過酷な状況下で撮影が行われていた。かつて、パンフォーカスを好んで多用する黒澤明監督は、幾つもの照明を使用したため、隣のスタジオから電力を引っ張ってきてクーラーの電力を確保したという逸話も残されている程。それを解決したのが蛍光灯ライティングというわけである。熱を出さないので、照明機材とクーラー等に掛かっていた電力が軽減されるという利点がある蛍光灯ライティングの噂は業界内で瞬く間に広がっていった。そもそも安河内が蛍光灯によるライティングを考案したキッカケは、熊谷秀夫の助手時代に遡る。直接光(対象に向けて照明をあてる)だと固い影が出来てしまうところを従来、間接光というトレーシングペーパー等をライトの前にかぶせて光をディフューズする事(曇り空の状態)で光を和らげるという手法を用いていた。当時、屋内で太陽光の自然な感じを光で再現するには何台もの間接照明を用いて不自然な影を消す事が必要であり、撮影現場において一番セッティングに時間と労力を使っていたのだ。「影の整理をつけられる人が腕の良い照明技師とされていた時代なんです」と当時を振り返る。まさに間接照明のテクニックが高く評価されていた照明技師が熊谷秀夫であり、彼の下で助手として数々の現場に携わって来た安河内は次第に“もっと簡単に間接光を出す事は出来ないものか?”と考えるようになった。キッカケとなったのは『ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け』撮影時の事…撮影監督の高間賢治があるシーンで照明を使わずに蛍光灯の光だけで行きたいと、言い出した事が発端となる。それまでは、蛍光灯のイメージを作り出すのが照明部の仕事と考えていた安河内は、“もし蛍光灯そのものを映画制作の照明として使えるならば便利になるのでは”と蛍光灯ライティングの開発に着手。当初、問題視されていたのはフィルム撮影した場合、蛍光灯の発色によって画面がグリーン掛かってしまう事とフリッカーが出る点。その後、周波数とシャッタースピードの調整によってフリッカーが出ない事が判明。専用の蛍光灯(カメラに合わせた周波数に改良されたもの)を使用する事で、手間を掛けずに元々が柔らかい光を発するため簡単に間接光の効果を得る事が可能となったのだ。「照明部の仕事というのは影との戦いなんですよ」という言葉通り、不自然な影をいかに消して行くかを追求した末に蛍光灯ライティングが誕生したわけである。


 「実は…最初は、カメラマンを目指していたんですよ。映像作家として成功するには、そう簡単に行く世界ではなく。むしろ映画の現場で早く仕事をするためには、どうすれば良いかを考えたわけです」と、語る安河内央之が一番最初に飛び込んだのが照明部だった。その理由というのが「撮影部や演出部はなかなか入りにくく…一方、照明部は機材が多く人手が必要だったため、すぐに入れてもらえたんですよね(笑)」当時、最も人手が足りなかった分野である照明を経験していれば、自分が映画を作る時、必ず役に立つと思い東映東京の照明部に晴れて入社したのが昭和44年。その2ヵ月後に日活芸能に移籍、そこで熊谷秀夫と出会う事となる。最初の現場、日活ロマンポルノ『「妻たちの午後は」より官能の檻』で24ボルトのライトを4台直列でつなぐという熊谷流の照明術(実は結構、危険なテクニックらしい)を目の当たりにして、その後の『居酒屋兆治』の現場で積極的に活用していく。“光源主体のナチュラルなライティング”を熊谷組の現場で覚え、助手時代に手掛けた『スローなブギにしてくれ』で光をなじませながら、リアルな画をセットの中でも作るやり方を学び、蛍光灯ライティングへと移行していく。こうして、照明助手のセカンドからチーフへと進み、次第に熊谷組以外の現場からもお呼びが掛かるようになる。その後、三船プロに移り、その1年後フリーになる。そんな中、昭和50年代に照明技術が大きく変化しはじめ、この頃を境に映像のイメージは大きく変わっていった。ちょうど降旗康男監督から声を掛けられ『居酒屋兆治』にて、一本立ちをした頃に符合する。その時、カメラマンを務めた木村大作より「お前を一本立ちさせてやる」と言われた事を今でも昨日の事のように覚えているという。『居酒屋兆治』では夜の屋外シーンで照明を付けられないと思われていた道路を挟んだ軒にワイヤーを架けて照明をセットする等、いくつもの画期的なアイデアで理想的な映像を作り上げた。続く降旗監督・木村カメラマンのコンビによる『魔の刻』そして『夜叉』で日本アカデミー賞照明賞を受賞、早々に頭角を現す。評論家の間でも最も評価の高い『ロビンソンの庭』では、様々な実験的なライティング手法を発揮。廃墟の室内シーンでグリーンのフィルターを用いて、神秘的なナイトシーンを作り出した。また、赤い部屋のシーンで、赤い布に赤い光を当て、手前にある花にブルーのスポットを当てる…と、いった立体的な色彩のフィルターワークを披露していた。

 これらの作品が公開された昭和50年代後半と言えば、海外よりアート系の作品が輸入され始めたミニシアターブームの先駆けと呼ばれた時期。ナチュラルな光に対して若手の映像作家が刺激を受けていた。まさに初めて蛍光灯ライティング(この時は色評価蛍光灯という初期の電球を使用)を採用した『1999年の夏休み』は、ナチュラルな色彩の映像を作り上げる事に成功し、多くの単館系ファンに支持された。続く『海へ SeeYou』では更に改良を重ね、5本の蛍光灯を並べたキットを開発。以降、この形状が定番となり、現在ではあらゆる撮影の現場で目にする程となった。更に手塚眞監督の『白痴』では、「僕の蛍光灯ライティングの集大成」と言わしめる程、ナチュラルで主張し過ぎない上品な光の演出に驚かされた。「あの作品は限られた予算の中で撮影しなくてはならなかったので時間が押したら徹夜してでも撮り切ったのですが、夜でも昼間と同じ光を出すのに苦労しました」と当時を振り返るが、今観ても違いが全く分からない程、寸分違わぬ調光が施されているのに驚かされる。蛍光灯ライティングでは影が出ないため方向感覚が分からなくなるという利点があり、それを上手く活用して常に“ゴールデン・アワー”(夕暮れの太陽が沈んだ直後で空は明るいのに太陽が無いため不必要な影が出ないわずか数分の絶好の撮影タイミング)の状態を作り出しているのだ。また劇中で国民的アイドルの銀河が歌うステージのシーンにおけるきらびやかな照明演出は、プロデューサーですら舞台照明を雇ったのかと勘違いした程のスケールの大きな素晴らしいものとなった。その後、蛍光灯ライティングをベースとして、更にその上から別の照明を加える事で、より立体的で奥深い光を作り出していた『旅の贈りもの0:00発』を手掛ける。夜のシーンで街灯のオレンジ色の光が出演者を照らしていながら、浮かび上がる人物は赤味がかる事なくナチュラルであった。また、全ての作品でコンビを組む竹中直人監督作品『さよならCOLOR』で、主演の原田知世が入院するベッドのスタンドから放たれるオレンジの光と彼女の顔に当たる光が各々独立されていながらも互いに喧嘩せず溶け込んでいたのが印象に残る。ちなみに竹中監督は、しっとりとした画を好まれるため蛍光灯ライティングを積極的に使用していたという。

 話しは前後するが、竹中監督デビュー作『無能の人』に照明で参加したのは、日活芸能在籍時からの盟友である佐々木原保志カメラマンから誘いを受けた事に始まる。蛍光灯ライティングの噂を兼ねてより聞いていた竹中監督は撮影現場で採用を決断。主人公が河原で石を売っている屋外でも蛍光灯ライティングを使用。雨が降る夜間シーンにおいては、小屋の後ろに照明をセッティングして、光がバックからこんもりと盛り上がり、雨の線が幻想的に浮かび上がる…といった、作品のイメージにピッタリな映像が生み出されたのである。安河内自身も個人的に原作のつげ義春が好きで「いつか映画化したい」と常々考えていたという。常に現場の雰囲気を明るく和ましてくれる竹中監督とはその後、竹中監督作品6作品全ての照明を担当、竹中監督からの絶大なる支持を受けて、度々映画の中でカメオ出演されている程だ。続く竹中作品2作目の『119』では録音部と照明部との熾烈な戦いが繰り広げられたと後にキネ旬ムック“フィルムメーカーズ 竹中直人”で語っている。照明で使用するゼネレーターの駆動音や蛍光灯の高周波のノイズ音がマイクで拾ってしまうためお互い(照明とマイク)の設置場所には、かなり苦労したらしい。そして、3作目の『東京日和』では3度目の日本アカデミー賞優秀照明賞を受賞している。続く4作目『連弾』ではふんだんに蛍光灯照明を使用して、現場ではセットの中に角材を組んで蛍光灯を取り付けるという大掛かりな作業となったという。その甲斐あって、『連弾』は、全編しっとりとした落ち着いたトーンの上品な風合いの作品に仕上がっていた。最新作『山形スクリーム」では敢えて蛍光灯ライティングを使わずに挑んだというが、コメディーホラーの漫画チックな作品だけにベタな風合いのカチッとした照明が実に良くマッチしていた。

 「とにかく熊谷さんから色々な事を教わりました。僕に特別な才能があったわけではなく、ひとつひとつ監督さんから要望された画作りをキッチリこなして来た…ただそれだけの事なのです」。安河内央之は「照明で大切な事は、映像を破綻させてはいけないということ」と力強く語る。「観客が映画を観て、照明の光を意識させてはいけない…むしろ照明なんて使っていたの?と思わせなくてはならないのです」。照明の世界で一時代を築いた安河内央之が次に目を向けたのが映画を作る若手クリエイターを支援すること。そうして立ち上げたのが“アキルフィルム”である。自主映画としては珍しくデジタルではなく35mmでの撮影にこだわり続けているのが“アキルフィルム”の特長だ。「スクリーンに投影される映画で本当に良い画を観たいならフィルムじゃないと細かなディティールまで再現出来ないんです。だからコストが掛かっても35mmにこだわっていくつもりです」いつの日か“アキルフィルム”から世界に羽ばたく映画人が現れるかも知れない。


安河内 央之(やすこうち ひろゆき)HIROYUKI YASUKOUCHI
1946年生まれ。
 写真専門学校を卒業後、21歳でフリーの照明助手となり「映画照明の神様」と称される熊谷秀夫に師事。1976年の『「妻たちの午後」より官能の檻』から1981年の『チャイナ・ドール上海異人娼館』『セーラー服と機関銃』まで助手を務める。1983年『居酒屋兆治』にて一人立ち1988年『1999年の夏休み』から本格的に蛍光灯ライティングの開発に尽力し、パイオニア的存在として認知される。1985年『夜叉』、1994年『RAMPO』、1997年『東京日和』において3度の日本アカデミー賞優秀照明賞を受賞する。数かすの作品を共にしたカメラマンの佐々木原保志とは名コンビと謳われ、竹中直人監督作品全てを手掛けている。竹中監督からの人望も厚く、6作品中4作品で印象的なカメオ出演をしている。
 また、照明の仕事以外にも、映画制作を志すクリエイターや俳優志望者を支援する団体「アキルフィルム」を設立。2000年に1作目を制作してから現在に至るまで約30本近くのショートフィルムを発表している。「伝統的な映画制作方法を次世代へ継承したい」という思いから全てをデジタルではなく35mmフィルムで撮影する事にこだわっている。現在、東京都西多摩郡にある自宅敷地内に私設のスタジオを設け、オープンセット、編集室、ダビング室、試写室を有する撮影から完成まで一括で行える設備を有している。さらに長野県上田市に宿泊も可能なセットを建設。そこを「映画の里」と称してショートフィルムを次々と世に送り出したいと活動を始めている。

(アキルフィルム 公式HP http://www.akilfilm.com/

昭和58年(1983)
居酒屋兆治

昭和60年(1985)
魔の刻
夜叉

昭和61年(1986)
ザ・サムライ
ノイバウテン 半分人間
ビリィ★ザ★ギッドの新しい夜明け

昭和62年(1987)
新宿純愛物語
ロビンソンの庭

昭和63年(1988)
1999年の夏休み
海へ See You

平成1年(1989)
キスより簡単
風の又三郎
バカヤロー!2
 幸せになりたい
cfガール

平成2年(1990)
われに撃つ用意あり

平成3年(1991)
あいつ
無能の人
王手

平成4年(1992)
寝盗られ宗介

平成5年(1993)
月はどっちに出ている
ヌードの夜

平成6年(1994)
夢魔
RAMPO奥山監督版
119

平成7年(1995)
RAMPOインターナショナルVer
人でなしの恋

平成8年(1996)
男たちのかいた絵

平成9年(1997)
秋桜
東京日和

平成10年(1998)
秘祭
元気の神様

平成11年(1999)
白痴
黒の天使 Vol.2

平成12年(2000)
フリーズ・ミー
ホーム・スイートホーム

平成13年(2001)
連弾
DRUGドラッグ
TOKYO G.P.

平成14年(2002)
およう
黄昏流星群
 星のレストラン

平成15年(2003)
ホーム・スイートホーム2 日傘の来た道

平成16年(2004)
花と蛇
サヨナラCOLOR

平成17年(2005)
ゴーヤーちゃんぷるー

平成18年(2006)
おばちゃんチップス
旅の贈りもの0:00発

平成21年(2009)
山形スクリーム




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