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初めて蛍光灯ライティングを採用した『1999年の夏休み』以降、幾つものCM製作の現場からもお呼びが掛かるほど反響があったという。それ以前の照明の場合、電力と人手が掛かり、夏場の室内撮影はクーラーでは補い切れないほど…正に熱地獄のような過酷な状況下で撮影が行われていた。かつて、パンフォーカスを好んで多用する黒澤明監督は、幾つもの照明を使用したため、隣のスタジオから電力を引っ張ってきてクーラーの電力を確保したという逸話も残されている程。それを解決したのが蛍光灯ライティングというわけである。熱を出さないので、照明機材とクーラー等に掛かっていた電力が軽減されるという利点がある蛍光灯ライティングの噂は業界内で瞬く間に広がっていった。そもそも安河内が蛍光灯によるライティングを考案したキッカケは、熊谷秀夫の助手時代に遡る。直接光(対象に向けて照明をあてる)だと固い影が出来てしまうところを従来、間接光というトレーシングペーパー等をライトの前にかぶせて光をディフューズする事(曇り空の状態)で光を和らげるという手法を用いていた。当時、屋内で太陽光の自然な感じを光で再現するには何台もの間接照明を用いて不自然な影を消す事が必要であり、撮影現場において一番セッティングに時間と労力を使っていたのだ。「影の整理をつけられる人が腕の良い照明技師とされていた時代なんです」と当時を振り返る。まさに間接照明のテクニックが高く評価されていた照明技師が熊谷秀夫であり、彼の下で助手として数々の現場に携わって来た安河内は次第に“もっと簡単に間接光を出す事は出来ないものか?”と考えるようになった。キッカケとなったのは『ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け』撮影時の事…撮影監督の高間賢治があるシーンで照明を使わずに蛍光灯の光だけで行きたいと、言い出した事が発端となる。それまでは、蛍光灯のイメージを作り出すのが照明部の仕事と考えていた安河内は、“もし蛍光灯そのものを映画制作の照明として使えるならば便利になるのでは”と蛍光灯ライティングの開発に着手。当初、問題視されていたのはフィルム撮影した場合、蛍光灯の発色によって画面がグリーン掛かってしまう事とフリッカーが出る点。その後、周波数とシャッタースピードの調整によってフリッカーが出ない事が判明。専用の蛍光灯(カメラに合わせた周波数に改良されたもの)を使用する事で、手間を掛けずに元々が柔らかい光を発するため簡単に間接光の効果を得る事が可能となったのだ。「照明部の仕事というのは影との戦いなんですよ」という言葉通り、不自然な影をいかに消して行くかを追求した末に蛍光灯ライティングが誕生したわけである。
これらの作品が公開された昭和50年代後半と言えば、海外よりアート系の作品が輸入され始めたミニシアターブームの先駆けと呼ばれた時期。ナチュラルな光に対して若手の映像作家が刺激を受けていた。まさに初めて蛍光灯ライティング(この時は色評価蛍光灯という初期の電球を使用)を採用した『1999年の夏休み』は、ナチュラルな色彩の映像を作り上げる事に成功し、多くの単館系ファンに支持された。続く『海へ SeeYou』では更に改良を重ね、5本の蛍光灯を並べたキットを開発。以降、この形状が定番となり、現在ではあらゆる撮影の現場で目にする程となった。更に手塚眞監督の『白痴』では、「僕の蛍光灯ライティングの集大成」と言わしめる程、ナチュラルで主張し過ぎない上品な光の演出に驚かされた。「あの作品は限られた予算の中で撮影しなくてはならなかったので時間が押したら徹夜してでも撮り切ったのですが、夜でも昼間と同じ光を出すのに苦労しました」と当時を振り返るが、今観ても違いが全く分からない程、寸分違わぬ調光が施されているのに驚かされる。蛍光灯ライティングでは影が出ないため方向感覚が分からなくなるという利点があり、それを上手く活用して常に“ゴールデン・アワー”(夕暮れの太陽が沈んだ直後で空は明るいのに太陽が無いため不必要な影が出ないわずか数分の絶好の撮影タイミング)の状態を作り出しているのだ。また劇中で国民的アイドルの銀河が歌うステージのシーンにおけるきらびやかな照明演出は、プロデューサーですら舞台照明を雇ったのかと勘違いした程のスケールの大きな素晴らしいものとなった。その後、蛍光灯ライティングをベースとして、更にその上から別の照明を加える事で、より立体的で奥深い光を作り出していた『旅の贈りもの0:00発』を手掛ける。夜のシーンで街灯のオレンジ色の光が出演者を照らしていながら、浮かび上がる人物は赤味がかる事なくナチュラルであった。また、全ての作品でコンビを組む竹中直人監督作品『さよならCOLOR』で、主演の原田知世が入院するベッドのスタンドから放たれるオレンジの光と彼女の顔に当たる光が各々独立されていながらも互いに喧嘩せず溶け込んでいたのが印象に残る。ちなみに竹中監督は、しっとりとした画を好まれるため蛍光灯ライティングを積極的に使用していたという。 話しは前後するが、竹中監督デビュー作『無能の人』に照明で参加したのは、日活芸能在籍時からの盟友である佐々木原保志カメラマンから誘いを受けた事に始まる。蛍光灯ライティングの噂を兼ねてより聞いていた竹中監督は撮影現場で採用を決断。主人公が河原で石を売っている屋外でも蛍光灯ライティングを使用。雨が降る夜間シーンにおいては、小屋の後ろに照明をセッティングして、光がバックからこんもりと盛り上がり、雨の線が幻想的に浮かび上がる…といった、作品のイメージにピッタリな映像が生み出されたのである。安河内自身も個人的に原作のつげ義春が好きで「いつか映画化したい」と常々考えていたという。常に現場の雰囲気を明るく和ましてくれる竹中監督とはその後、竹中監督作品6作品全ての照明を担当、竹中監督からの絶大なる支持を受けて、度々映画の中でカメオ出演されている程だ。続く竹中作品2作目の『119』では録音部と照明部との熾烈な戦いが繰り広げられたと後にキネ旬ムック“フィルムメーカーズ 竹中直人”で語っている。照明で使用するゼネレーターの駆動音や蛍光灯の高周波のノイズ音がマイクで拾ってしまうためお互い(照明とマイク)の設置場所には、かなり苦労したらしい。そして、3作目の『東京日和』では3度目の日本アカデミー賞優秀照明賞を受賞している。続く4作目『連弾』ではふんだんに蛍光灯照明を使用して、現場ではセットの中に角材を組んで蛍光灯を取り付けるという大掛かりな作業となったという。その甲斐あって、『連弾』は、全編しっとりとした落ち着いたトーンの上品な風合いの作品に仕上がっていた。最新作『山形スクリーム」では敢えて蛍光灯ライティングを使わずに挑んだというが、コメディーホラーの漫画チックな作品だけにベタな風合いのカチッとした照明が実に良くマッチしていた。 「とにかく熊谷さんから色々な事を教わりました。僕に特別な才能があったわけではなく、ひとつひとつ監督さんから要望された画作りをキッチリこなして来た…ただそれだけの事なのです」。安河内央之は「照明で大切な事は、映像を破綻させてはいけないということ」と力強く語る。「観客が映画を観て、照明の光を意識させてはいけない…むしろ照明なんて使っていたの?と思わせなくてはならないのです」。照明の世界で一時代を築いた安河内央之が次に目を向けたのが映画を作る若手クリエイターを支援すること。そうして立ち上げたのが“アキルフィルム”である。自主映画としては珍しくデジタルではなく35mmでの撮影にこだわり続けているのが“アキルフィルム”の特長だ。「スクリーンに投影される映画で本当に良い画を観たいならフィルムじゃないと細かなディティールまで再現出来ないんです。だからコストが掛かっても35mmにこだわっていくつもりです」いつの日か“アキルフィルム”から世界に羽ばたく映画人が現れるかも知れない。
(アキルフィルム 公式HP http://www.akilfilm.com/) |
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