「人生劇場飛車角」の大ヒットによって、新しく任侠映画というジャンルを生み出した東映。既に東宝から東映に移籍したベテラン俳優鶴田浩二が着流し姿の出立ちで任侠映画のスターとして数々の名作に出演し、東映任侠映画の看板を一人で背負っていた。しかし昭和40年代に入って、その人気を確実なものとして日本中に任侠映画ブームを巻き起こしたのは高倉健であったと言っても過言ではないだろう。それまでは美空ひばり主演作やスーツ姿の探偵ものに出演していた健さんだったが、前述の「人生劇場飛車角」のヒットによって新たな任侠シリーズを模索していたプロデューサー俊藤浩滋が当時の時代劇スター中村錦之介主演に構想を練っていた。それがマキノ雅弘監督による「日本侠客伝」である。しかし、当の中村錦之介が出演を拒否…当時撮影中だった田坂具隆監督の文芸大作「鮫」のスケジュールが延びていた事と、俳優を中心とした“東映労働俳優組合”の代表を任されたばかり…等々が重なったためと言われている。そこで急遽、主役として大抜擢されたのが高倉健というわけだ。当初、俊藤プロデューサーの依頼に乗り気ではなかった感じの健さんだったが、脚本を読むや否や「ぜひやらせてください」と一つ返事で承諾…中村錦之介を助演に迎え、完成させた同作品は既に公開されていた鶴田浩二主演の「博徒」シリーズを凌ぐ大ヒットとなり、同時に高倉健を一躍、人気スターの座に押し上げる事となったのである。
 そして、健さんの人気を不動のものとして、決定付けた作品が、この翌年に誕生する。それが前年に新東宝から東映へ移籍したばかりの石井輝男がメガホンを取った「網走番外地」である。一度に2本の大ヒットシリーズを手にする事となった健さんだが、フィーバーはそれだけに留まらなかった。本作で歌った主題歌がテイチクよりレコード化され、ミリオンセラーの大ヒットを記録(ただし歌詞のため放送禁止)したのだ。以降、全てのシリーズの主題歌を健さんが歌う事となり、この主題歌を聴きたいがために劇場へ足を運んだ観客も多く、当時を知る名古屋の映画館主は、映画が始まって主題歌が流れると場内で観客が一緒に歌い始め、大合唱になったと語ってくれた。中部を境に、鶴田浩二よりも高倉健の人気が強いのは関西だと言われているが健さんが演じる主人公は若さ故の無鉄砲さがあるつつ、自分の信念を一本貫いている、言わば観客の等身大に近いキャラクターを演じていたからではないだろうか。既にベテラン俳優の貫禄がある鶴田浩二は、ひとつ上から優しく見守る兄貴分タイプを得意としており、直情型の健さんの方が関西人気質にあっていたのかも知れない。
 そして、昭和40年代…東映任侠映画のエポックメイキングとも言える名作「昭和残侠伝」シリーズでは、健さんの人気は最盛期を迎える。70年安保で学生たちが理想に燃え各地で学生運動の火が燃え上がっていた時代だ。学生たちは、国家権力に立ち向かう自分たちの姿と、善良な市民を踏みつけるヤクザ組織にドス一歩んで立ち向かう花田秀次郎=高倉健を重ねていたのであろう。また、本作でも健さんの歌う主題歌“唐獅子牡丹”が大ヒット。数社のレコード会社が名乗りを挙げたほどの反響があり、クライマックスで主題歌をバックに敵の事務所へ殴り込みをかけるシーンになると観客は椅子の上に立ち上がり、さらにはその上で跳ね上がるものだから完全に椅子が破壊されてしまうほどだったという。(今でも、愛知県の西尾劇場では当時の壊れたままの椅子を残している)ちなみに当時、歌のアドバイスをしてくれたのは元妻の江利チエミ。特訓の甲斐があって上手くなったものの、あえて不器用で唸るような歌い方をしていた下手なほうが健さんらしい…ということで下手なテイクを使用したという。
 東映映画には無くてはならない不動の地位を獲得した健さんだが、常に謙虚な姿勢で現場に入り文句一つ言わずに監督の支持を的確に表現する…まさに健さんが演じた主人公そのままの役者なのだ。


高倉 健(たかくら けん)、本名:小田剛一(おだ ごういち)1931年2月16日生まれ
 父は旧海軍軍人で炭鉱夫の取りまとめ役をする父を持ち裕福な一家で育つ。故郷の福岡県中間市は、刺青を背負った男が多いと言われる場所で、幼少の頃から見て来た渡世人やヤクザの姿が、後の演技に大きな影響を与えた。元妻は歌手・女優の江利チエミ(故人)。鴛鴦夫婦だった二人だが、当時江利チエミの親類の借金を彼女が肩代わりすることとなり、高倉健に迷惑が掛からないようにと彼女から離婚の話しを持ち出し1971年、正式に別れた後は独身のまま現在に至っている。
 1955年(昭和30年)東映に入社。当時、ニューフェイスは俳優座演技研究所で6ヶ月、プラス、東映の撮影所で6ヶ月の修行(端役出演など)が決められていたにもかかわらず、入社わずか1ヶ月あまりで映画「電光空手打ち」の主役で華々しくデビュー。それまで演技経験も全くなく、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない新人の高倉がすぐに主役デビューすることはまさに大抜擢であった。その後、現代劇を中心に主演スターとして活躍。だが、まともに演技のトレーニングを受けたことがないまま映画出演を続けたことが、ずっとコンプレックスになっていたという。1960年代前半までの時代劇映画中心の東映では大スターとはいえず、片岡千恵蔵や美空ひばりの映画作品の助演も多かった。
その流れが変わることになるのは、ヤクザ映画ブームの起点となる「人生劇場・飛車角」(1963年、鶴田浩二主演)に出演し注目を集めてからである。1964年から始まる「日本侠客伝」シリーズ、翌年から始まる「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝」シリーズに主演し、一躍、日本で最も集客力のあるスーパースターとなる。自らを厳しく律し、酒を飲まず筋力トレーニングを続けて肉体美を作っていた健さんの刺青姿の立ち回りは圧巻で、他のスターとは別次元の凄みがあった。たくましい体の背筋をピンと伸ばし、寡黙、言い訳をせず筋を通すという健さんのイメージはこの頃作られ、21世紀の現在まで役柄に現れている。
 1975年まで凄まじい数のヤクザ映画に出演。今でもヤクザ映画のシンボル的存在として歴史に残っている。1973年に高倉プロを設立。1975年には東映を退社。1977年には松竹の『幸福の黄色いハンカチ』で初の他社映画出演を果たす。その後、日本を代表する文化人的芸能人として、半世紀にもわたって活躍を続ける。以降の代表作は「八甲田山」、「南極物語」、「鉄道員」などでいずれも邦画史に残る大ヒットを記録している。
(参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

【主な出演作】

昭和31年(1956)
電光空手打ち

昭和33年(1958)
季節風の彼方に
森と湖のまつり

昭和36年(1961)
万年太郎と姐御社員 

昭和37年(1962)
裏切者は地獄だぜ

昭和38年(1963)
人生劇場飛車角
暗黒街最大の決斗

昭和39年(1964)
飢餓海峡
日本侠客伝

昭和40年(1965)
網走番外地
昭和残侠伝
日本侠客伝
・関東篇

昭和41年(1966)
日本侠客伝
・雷門の決斗

昭和43年(1968)
緋牡丹博徒
人生劇場
・飛車角と吉良常

新網走番外地
博徒列伝

昭和45年(1970)
昭和残侠伝
・死んで貰います

昭和47年(1972)
関東緋桜一家

昭和48年(1973)
山口組三代目
ゴルゴ13

昭和50年(1975)
新幹線大爆破

昭和52年(1977)
八甲田山
幸福の黄色いハンカチ

昭和53年(1978)
冬の華
野性の証明

昭和56年(1981)
駅 STATION

昭和58年(1983)
南極物語
居酒屋兆治

平成11年(1999)
鉄道員




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