昭和残侠伝 死んで貰います
行くなと言われて、なお行きたがる。任侠気質はとめられませぬ。どこへ!?…と聞くだけヤボな殴り込み。
1970年 カラー シネマスコープ 92min 東映東京
企画 俊藤浩滋/吉田達 監督 マキノ雅弘 助監督 澤井信一郎 脚本 大和久守正 撮影 林七郎
音楽 菊池俊輔 美術 藤田博 録音 広上益弘 照明 川崎保之丞 編集 田中修 スチール 遠藤努
出演 高倉健、加藤嘉、荒木道子、永原和子、藤純子、池部良、中村竹弥、八代万智子、山本麟一
長門裕之、小林稔侍、諸角啓二郎、南風夕子、高野真二、石井富子、永山一夫、尾孝司、山田甲一

全9作製作された『昭和残侠伝』シリーズの4作目「血染めの唐獅子」、5作目の「唐獅子仁義」に続き、1年ぶりで東映に戻ってきたマキノ雅弘監督が手掛けた第7作目。マキノ監督は本シリーズを通じて、やくざの生き方、心、侠気を描こうとしており、それまで人を斬るという行為を見せ場にしていたやくざ映画に人間性を持たせる事を心がけていた。シリーズ2作目「唐獅子牡丹」で高倉健が言う「死んで貰います」は流行語となり、本作で初めてタイトルに使われたが、後にマキノ監督は高倉健との仕事を次のように振り返る。―池部良が本作の中で、健さんに謝るシーンがあるのだが、肝心の健さんが何も言わない。本来は慰めて然るべきシーンなのだが、脚本に書いてあるセリフをあえて何も言わない…健さんはその方が良いと思ってした演技が、監督の意向に反しながらも結果的には味わい深いシーンとなったのは皮肉な事だ。その脚本を「博徒仁義 盃」の大和久守正が執筆。東京下町の深川にある料亭という、一見やくざ映画からは遠い存在のようなシチュエーションで斬新なストーリーを生み出した。また、マキノ監督は「侠骨一代」における藤純子の演技が一番良かったと高く評価しており、好きな男に添い遂げるよりも、身を挺して男のために異国へ売られてゆく女郎…これと同じ設定で本作の脚本が出来上がった。「新網走番外地 大森林の決闘」の林七郎が撮影を担当し、迫力溢れるカメラワークと、小雨のちらつく銀杏の木の下で初めて出会う高倉健と藤純子のドラマチックな名場面を見事に作り上げた。

東京深川の老舗料亭「喜楽」に生まれた秀次郎(高倉健)は、賭場で無一文になり、イカサマと見抜くも、証拠が無いため逆に袋だたきにあってしまう。力つきて、銀杏の木の下にうずくまっていた秀次郎に、そっと救いの手を差し伸べてくれた娘がいた…まだ芸者になったばかりの幾江(藤純子)だった。それから三年、いっぱしの渡世人となった秀次郎は、以前袋だたきにされたイカサマ師観音熊(山本麟一)のイカサマを見破り、その場で左手に刃を突き刺し逮捕される。服役中の秀次郎の元に、腹違いの妹が面会に訪れ、家に戻るように嘆願する。父と後添えの継母との間に出来た妹のために、自ら身を引いて渡世に身を沈めた秀次郎の胸に別れた家族に対する思いは大きく膨らんでいった。秀次郎の服役中に、父親は亡くなり、関東大震災と妹の死、そして継母は疲労によって盲目となってしまい、「喜楽」は窮地に追い込まれるが、板前の風間重吉(池部良)と小父の寺田(中村竹弥)が一家と店を支えていた。出所した秀次郎は、家を陰ながら支えるために、自分の正体を隠して板前として働くこととなった。その頃、売れっ妓芸者となって秀次郎の帰りを待ち続けていた幾江の元に、重吉と寺田の計いで秀次郎が現れる。七年ぶりの再会に二人の心は次第に近づき始めるのだった。そんな頃、寺田一家のシマを横取りしようと画策していた新興博徒の駒井が、「喜楽」を乗っとろうとしていた。秀次郎の義弟・武志に多大な借金を背負わせていた駒井は、それまでの借金の片に「喜楽」の権利書を取り上げてしまう。仲裁を買って出た寺田であったが、帰り道に駒井の手下によって殺されてしまう。堅気となりやくざの挑発に耐えてきた秀次郎だったが、自分の腕の中で息絶える恩人の姿に、単身駒井の一家に乗り込む決意を固める。重吉もまた、恩人であった寺田の弔い合戦と、自分の愛する「喜楽」を守るために封印して来た刃を手に、秀次郎と共に駒井のもとに殴りこみを掛けるのだった。

本作ほど山本麟一がカッコ良く描かれた作品はないだろう。冒頭、まだ駆け出しのチンピラだった高倉健演じる秀次郎がカモにされている賭場でサイコロを振る山本麟一演じる観音熊。イカサマを見破りながらも何も言わずその場を立ち去る健さんを追いかけて袋だたきにする子分たち。それを制する山本が「勝負にはイカサマはつきものなんだ。見破られたら、俺はこの腕を叩き切られなきゃならないんだ。見破ってこそのイカサマ。半端な事は出来ないんだ」と健さんの肩をポンとたたく…。このシーンにおいては、山本の方が健さんよりも二周りも大きく感じた。そりゃそうだろう、本作はシリーズとしては珍しく健さんは深川の老舗料亭の跡取りで、言わば坊ちゃん。義理の妹とその亭主のために自ら家を出てやくざ稼業に身を挺する役回りなのだから、その道で命を賭けている男とは器が違うのは当たり前の事なのだ。それから3年後、イカサマを見破った健さんは山本の腕を刃で突き刺し、刑務所に入る事になるのだが、この二人はさらに数年後関わりを持つ事になる。このストーリーの呼吸…と、でも言おうか…健さんの突き刺した刃のおかげで片手が不自由になった山本を再度絡めるあたりは、さすがマキノ監督である。
他にもマキノ監督ならではの胸が熱くなるシーンが多いのも本作の特徴のひとつ。料亭の一人息子である健さんが父親の後添えとなってやって来た継母と腹違いの妹のために、自ら身を引き家を飛び出たため刑務所から出所しても簡単に家に戻る事は出来ない。父親も妹も既にこの世に無く、残された継母は過労から目が見えなくなっている。息子である事を隠して料理人として料亭の手助けをしようとする健さんだが、継母はその正体を気付いており、仏壇に手を合わせたいであろう健さんの気持ちを汲みとって、仏壇のろうそくに火を灯す事を命じる場面は、まさに人情劇を得意とするマキノ節が炸裂するシーンである。また、クライマックスの二人の道行きのシーンで、何と言っても凄いのは、健さんの歌が始まると着流し姿の男が画面中央から手前に向かって歩いてくる。誰もが健さんだと思っているその男が池部良だという事だ。軽く肩透かしをしておいて、歌が止まると健さんが登場。二人が肩を揃えて歩き出すと再び歌が始まるという何ともドラマチックな演出に感動してしまう。
今回描かれているのは、やくざ組織同士の争いではなく、やくざが一般庶民を苦しめるという図式。料亭で働く料理人に池部良演じる風間重吉を配し、ヤクザ者と一般人との境界線に位置する男を演じている。それが顕著に表れているのが、芸者の藤純子を力づくで手込めにしようとしている敵役の親分に止めに入った健さんが力で阻止するのだが、どんな理由があったとしても客である親分に対して従業員が手を上げた健さんを殴り、謝らせる…実は、ここが商売人の鉄則であり、力で制しようとするやくざとの決定的な違いであると、言わんばかりに…。時代の流れから、やくざの描かれ方も変わって来ており、本作においても弱者の立場からの視線が重要な要素となっている。
ヤクザ映画のマンネリ化が囁かれ始めた頃だからこそ、殴り込みのシーンよりも人間ドラマに重きを置いたマキノ監督…その狙いは正しかった。
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