辰巳柳太郎や島田正吾が所属する新国劇で舞台俳優からスタートした緒形拳は役者として、かなり得した顔を持っていると思う。勧進帳の弁慶を彷彿とさせるキリッと目張りが入ったような鋭い眼、彫りの深い頬に一本一本クッキリと刻まれた皺、怒った時に歯を食いしばりギュッと歪む唇、一度見ると忘れられない実に印象的な面構えだ。失礼ながら決してイイ男という形容は当てはまらず言うなれば「コクと深みのある顔」だ。だからであろうか…緒形拳の顔のアップが印象的な含みを持たせた作品が結構、多い事に気付く。緒形が映像の世界に入るキッカケとなった象徴的な出来事は、まだ新国劇の団員だった頃、フジテレビで放送されていた“新国劇アワー”という番組で偶然、緒形の顔がアップで映し出された時に辰巳柳太郎が「これが映像の顔だ!」と言ったことに端を発する。アップにされた時に演じる役の人生を物語る顔…それは表情だけではなく本来持ち合わせている骨格や顔立ちに恵まれていたのは確かだ。役によって顔の筋肉を調整しているのか?と思える程、野村芳太郎監督作品『鬼畜』で演じた気の弱い町工場の社長と今村昌平監督作品『復讐するは我にあり』で演じた日本を震撼させた実在の連続殺人犯が同じ役者とは思えない。いきなり幼い子供を連れて押し掛けてきた愛人とヒステリックにまくし立てる本妻との間をただオロオロするしかない情けない男に扮した『鬼畜』にしても怯えた瞳の奥にギラギラした光を発する凄みが存在する。その凄みはある覚悟を持った男のものであって今村監督作品でカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『楢山節考』で村の掟に従い母を背負って険しい山を姥捨てに行く主人公・辰平もそうだった。「お山に行く」と言う母に涙した辰平が無言で姥捨て山を登るシーンで見せる覚悟を決めた息子の表情は深く胸に突き刺さる。奥田瑛二監督による晩年の名作『長い散歩』の主人公が家族を顧みず家庭を崩壊させてしまった過去への贖罪から、縁もゆかりもない虐待される隣人の少女を助け出す時にその表情を見せる。この映画に出てくる老人を見た時、緒形の役者人生におけるターニングポイントとなった野村芳太郎監督作品『砂の器』で演じた三木巡査を思い出した。登場シーンは少ないが田舎町の警官が幼い子供を引き取り、行方不明となった子供を必死で探す回想シーンは強い印象を残した。思い返せばこの役で緒形の持ち味は既に確立されていたようである。

 そんな緒形について深作欣二監督が的確に言い表した事があった。「大スターはカチーンと自分の世界を作ってしまうが緒形さんは自分の世界を固定しない。逆に自分が受けに回って相手を立てるんです」ナルホドな…と思った。緒形の主演作で複数の女性に比重を置いた作品が多いのは、巧みに女優を立てて良いところを引き出してくれるからなのかも知れない。だからこそ深作監督は自身の『火宅の人』で女に翻弄される昭和の文豪・壇一雄に抜擢したのだろう。本作は妻・愛人・行きずりの女を渡り歩く壇が主役のようでありながらあくまでも主軸は女性たちに置いている。その点においては五社秀男監督と共通しているのか主演作に五社作品が多いのも納得出来る。『薄化粧』も緒形演じる逃亡の旅を続ける殺人犯が逃亡先で出会う小料理屋の女将(この映画の藤真利子は綺麗だったなぁ)の人生に共鳴し合って愛の逃避行へと変わるし、宮尾登美子原作『陽暉楼』では女衒の大物として高知で名を馳せた大勝に扮し(当初は仲代達矢が演じる予定だった)池上季実子演じる陽暉楼一の芸妓・桃若と浅野温子演じる遊郭一の女郎・珠子の間で適度な距離感を保ちながら二人の魅力を最大限に引き出していた。肺の病に侵され最後を看取る実の娘である桃若を腕に抱く時に見せる緒形の表情にドキッとする。続く(またしても宮尾&五社コンビ)の『櫂』でも十朱幸代演じる妻を振り回す自由奔放な女衒の夫を好演していた。そして翌々年には今村監督が手掛ける(そのものズバリの…)『女衒』に出演。香港やシンガポール等東南アジアを股にかけて日本人の娘たちを抱える娼館を経営し己の才覚を活かした女衒の生涯を歩んだ明治時代に実在した男を生き生きと演じた。80年代の主演作品はこうした昭和初期に生きる豪胆な男という役柄が多かった。正に40歳半ば…脂の乗りきった頃だ。

 1990年代後半、60歳を過ぎてから緒形は意欲的にインディーズ作品に出演していた。中でも池端俊策監督作品『あつもの 杢平の秋』は間違いなく後期の緒形を語る上で欠かす事が出来ない秀作となる。緒形が演じる主人公の杢平は菊作りの名人と賞賛されながらもヨシ笈田扮すライバルの黒瀬に勝つことが出来ない。どんなに努力をしても一番になれない杢平を受け身の演技に徹しながら、内側からフツフツと滲み出る天才に対する焦燥感を抱く…といった難しい役を好演していた。もう一本心に残るのは、山本政広監督作品『歩く、人』で緒形が演じた恋女房に先立たれやもめ暮らしの老人役。妻の死後、操を立てていた主人公が三回忌を女性解禁日に決めていながらも娘ほど歳が離れている女の子におんぶされて「自慢じゃないが女房しか知らないんだ。それでイイと思ってる。それで死んで行きたいと思ってる…」と朴訥と言うセリフに感動した。本作はカンヌ国際映画祭ある視点部門に出品され「映画を持ってカンヌに行くのは役者の夢」(垣井道弘著「緒形拳を追いかけて」より抜粋)と言っていた緒形はベテラン監督から若手監督までカンヌへ導く天才かも知れない。それから4年後には奥田瑛二監督作品『長い散歩』ではモントリオール世界映画祭でグランプリを受賞。いずれも感情をギリギリまで表に出さない抑えたストイックな演技が新鮮で、歳を重ねる毎に渋みと円熟味を増していただけに71歳で逝ってしまわれたのは残念でならない。


 山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市下谷)に生まれる。檀家は本籍地が福岡県山門郡沖端村(柳川市)で、柳川藩の普請方を務めた家柄であった。父は山梨県立工業学校の図画教員で、繊維工業試験場の嘱託も兼ねていた。昭和3年に福岡高等学校文科乙類へ進学した頃、同人誌を制作して小説や詩を発表しており、社会主義読書会へも参加したため停学処分を受けた。昭和7年、東京帝国大学経済学部に入学。昭和8年、同人誌『新人』を創刊し、処女作「此家の性格」を発表、瀧井孝作や林房雄らの賞賛を受け、尾崎一雄を紹介される。同年、太宰治、井伏鱒二の知遇を得、師と仰いだ佐藤春夫とも出会う。この年には両親の離婚後11年ぶりに母とみと再会。昭和9年、古谷綱武と同人誌『鷭』を創刊するが二号で廃刊。太宰治、中原中也、森敦らと『青い花』を創刊、翌年、日本浪曼派に合流する。昭和11年、「夕張胡亭塾景観」が第2回芥川賞候補となる。『文藝春秋』に出世作「花筐」を発表。太宰の死後坂口安吾とも交流をもつ。昭和16年、母の勧めで福岡の開業医の娘高橋律子と結婚し、昭和18年に長男太郎が誕生。昭和19年には陸軍報道班員として大陸へ渡る。この間律子は腸結核に罹患。終戦後に帰国した一雄は献身的な看病を行ったが、律子は昭和21年に死去。同年、児童文学者与田準一の紹介で福岡県瀬高町の酒造家の娘山田ヨソ子と再婚し、上京後は石神井に居を構える。昭和25年、先妻律子を描いた連作「リツ子・その愛」、「リツ子・その死」にて文壇に復帰。昭和26年「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞。その頃、檀は舞台女優入江杏子と愛人関係にあり、入江は石神井の自宅にしばしば出入りしていたが、昭和31年、青森県蟹田町の太宰治文学碑除幕式に同行した際に男女の関係となり、そのまま山の上ホテルで同棲をはじめた。入江杏子との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』である。昭和36年、「火宅の人」の最初の一編である「微笑」が文芸誌『新潮』に発表され、その後連作として各誌に発表された。しかし以後執筆は遅々として進まず一旦中断した。昭和45年11月より昭和47年2月までポルトガルのサンタ・クルスに滞在。昭和49年、福岡市能古島に自宅を購入し転居、月壺洞(げっこどう)と名づけた。昭和50年に檀は悪性肺ガンのため九州大学医学部付属病院に入院。『火宅の人』を再開し、病床で最終章「キリギリス」を、口述筆記にて完成させ遺作となった。昭和51年1月2日死去。享年63だった。没後の昭和52年に読売文学賞を受賞し、終の住家となった能古島に文学碑が建てられ、その文面には檀の辞世の句となった「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と刻まれ、毎年5月の第3日曜日には檀を偲ぶ「花逢忌」がこの碑の前で行われている。(Wikipediaより一部抜粋)


緒形 拳(おがた けん 本名:緒形 明伸 1937年7月20日 - 2008年10月5日)KEN OGATA
東京府東京市牛込区(現・東京都新宿区)出身。
 太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれた為、小学校二年生の時に千葉県千葉市登戸町(現在の千葉市中央区登戸)に一家で疎開したという。中学まで千葉で過ごし、その後東京へ戻った。1957年、東京都立竹早高等学校卒業後、憧れていた新国劇の二大看板俳優の一人、辰巳柳太郎の弟子になるべく、1958年新国劇に入団。辰巳の付き人となる。1960年、新国劇のもう一人の看板俳優、島田正吾に見い出され、『遠い一つの道』で主人公のボクサー役に抜擢された。作品は映画化され映画デビューも果たす。1965年、NHK大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢される。撮影期間も新国劇の活動を休むことは許されなかった。1966年、引き続き、NHK大河ドラマ『源義経』に弁慶役で出演。新国劇所属の女優・高倉典江と結婚。1968年、新国劇を退団。テレビ・映画に精力的に出演し、テレビでは『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安役を演じる。
 1978年、野村芳太郎監督作品『鬼畜』に主演。その年の数々の男優賞を受賞する。その後も1979年に『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)、1983年に『楢山節考』(今村昌平監督)に主演し高い評価と名声を得る。また1999年、池端俊策監督の『あつもの』で「フランス・ベノデ映画祭グランプリ」を受ける。2000年、紫綬褒章受章。2008年10月4日、自宅で体調が急変。獨協医大病院に運ばれ肝臓破裂の緊急手術を受けるも、翌2008年10月5日午後11時53分、肝癌により死去。緒形の最期は家族と長年の友人であった津川雅彦が看取った。息子の緒形幹太・直人兄弟が葬儀の後、プレスインタビューに応え、緒形は以前から慢性肝炎を患い、2002年ごろに肝硬変を経て肝癌に至り、適切な内科的手術を受け投薬治療や食餌療法を受けながら、病を隠して俳優活動を続けていたこと、また2007年暮れには腰椎圧迫骨折の大怪我を負っていたことなどが明かされた。2008年10月31日、長年の演劇界への貢献が評価され、緒形に旭日小綬章が授与(勲記は2008年10月5日付)された。最後の出演作は、ドラマ『風のガーデン』(フジテレビ系列テレビドラマ)となり、死去5日前の9月30日には作品の制作発表にも出席していた。
(Wikipediaより一部抜粋)


【参考文献】
緒形拳を追いかけて

335頁 19.5 x 14cm ぴあ
垣井道弘【著】
2,400円(税別)

昭和43年(1968)
セックス・チェック
 第二の性

昭和44年(1969)
永訣 わかれ
風林火山
わが恋わが歌
七つの顔の女

昭和46年(1971)
婉という女

昭和48年(1973)
必殺仕掛人
 梅安蟻地獄

昭和49年(1974)
必殺仕掛人
 春雪仕掛針
砂の器
狼よ落日を斬れ
 風雲篇・激情篇・怒濤篇

昭和52年(1976)
太陽は泣かない

昭和52年(1977)
八甲田山

昭和53年(1978)
鬼畜

昭和54年(1979)
復讐するは我にあり

昭和55年(1980)
復活の日
わるいやつら
影の軍団 服部半蔵

昭和56年(1981)
北斎漫画
魔界転生
ええじゃないか
太陽のきずあと

昭和57年(1982)
野獣刑事

昭和58年(1983)
楢山節考
魚影の群れ
オキナワの少年
陽暉楼
 

昭和60年(1985)
薄化粧

MISHIMA:A Life In Four Chapters

昭和61年(1986)
火宅の人

昭和62年(1987)
女衒
吉原炎上

昭和63年(1988)
優駿 ORACION
ラブ・ストーリーを君に
孔雀王
華の乱

平成1年(1989)
将軍家光の乱心 激突
社葬
座頭市

平成3年(1991)
咬みつきたい
グッバイ・ママ
陽炎
大誘拐 RAINBOW KIDS 

平成4年(1992)
おろしや国酔夢譚
継承盃

平成5年(1993)
国会へ行こう!

平成8年(1996)
ピーター・グリーナウェイの枕草子
GONIN 2

平成11年(1999)
あつもの 杢平の秋
流星

平成12年(2000)
殺し

平成13年(2001)
歩く、人

平成15年(2003)
ミラーを拭く男

平成16年(2004)
隠し剣 鬼の爪
Last Quarter下弦の月

平成17年(2005)
ミラクルバナナ
蝉しぐれ

平成18年(2006)
長い散歩
武士の一分
佐賀のがばいばあちゃん

平成20年(2008)
ゲゲゲの鬼太郎
 千年呪い歌




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