<39> 刑法第三十九条
あなたは誰。死刑を望む犯人と女性鑑定人。森田芳光監督・衝撃のサイコ・サスペンス。
1999年 カラー ビスタサイズ 133min 光和インターナショナル
製作 幸甫、鈴木光 プロデューサー 三沢和子、山本勉、田沢連二 監督 森田芳光 助監督 杉山泰一
脚本 大森寿美男 撮影 高瀬比呂志 音楽 佐藤俊彦 美術 小澤秀高 録音 橋本文雄 照明 小野晃
編集 田中愼二 原作 永井泰宇
出演 鈴木京香、堤真一、岸部一徳、杉浦直樹、樹木希林、江守徹、吉田日出子、山本未来
勝村政信、笹野高史、竹田高利、入江雅人、春木みさよ、菅原大吉、國村隼、大地泰仁、浅井美歌
南イサム、吉田勇己、吉谷彩子、川村一代、佐藤恒治、小林トシ江、土屋久美子、ラッキィ池田
常識を覆すような犯罪が横行し、猟奇的な犯罪が頻発している現代社会。20世紀最後に世紀末という時代を象徴する映画が誕生した。謎に満ちた猟奇的殺人事件の容疑者の精神鑑定に、女性精神医が挑む法廷サスペンス。「失楽園」に続き森田芳光監督が、まるでジグソーパズルを埋めていくような第一級のエンターテイメントミステリーに仕上げている。鈴木光と大森寿美男による原案と永井泰宇による原作を基に、作り上げられたリアリティ溢れる脚本は大森寿美男が徹底した取材によるものだ。それまで、演技がかった裁判の光景を生々しい人間ドラマに置き換え、映画全体に“まがまがしい雰囲気”をみなぎらせる事に成功している。また銀残しによるシャープな陰影を与えた撮影を「キリコの風景」や森田監督作品常連の高瀬比呂志が担当。主演は、「ラヂオの時間」で日本アカデミー主演女優賞を獲得した鈴木京香と「アンラッキー・モンキー」の堤真一の他、重厚性のある実力派俳優を揃えている。脇役の中でも樹木希林を演じた国選弁護人は脚本段階では男性だったところを、そのままのキャラクターで樹木希林に出演を依頼。抑制の利いたセリフ回し等見事な演技を披露してくれた。第49回ベルリン国際映画祭コンペ部門正式出品、ヨコハマ映画祭作品賞の他、数々の賞を受賞している。
大学で心理学の研究をしている精神鑑定人の小川香深(鈴木京香)は、精神医学者の藤代(杉浦直樹)の助手として、司法精神鑑定に参加することになった。事件の容疑者である劇団員の柴田真樹(堤真一)は、雑司ヶ谷に住む若い夫婦・畑田修と恵を殺害した罪で逮捕、告訴されており、本人は大筋で罪を認めているものの犯行当時の記憶がなく殺意を否認。そこで、刑法第三十九条により無罪を主張する国選弁護人・長村(樹木希林)が被告の精神鑑定を請求したのだ。藤代と共に拘置所を訪れた香深は、初めは藤代の横で記録を取るだけだったが、次第に彼の経歴について質問を浴びせるようになる。そんなある日、香深たちの前で柴田にもうひとりの人格が現れた。どうやら、彼は子供の頃に父親から受けた虐待によって、多重人格症になっていたのだ。しかも戦闘的なその人格は、柴田と違って左利き。畑田を殺害した犯人も左利きであったことなどから、藤代は法廷で柴田は犯行時には精神が解離状態で心神喪失していたと鑑定する。ところが、香深は藤代と違い柴田は詐病であるとの結論を出していた。そのことを裁判長に申し立てた香深。訴えを聞き入れられ再鑑定を任されることになった彼女は、柴田には畑田を殺害する動機がないことから、畑田自身の経歴を探っていくうち、彼が少年時代に工藤温子という少女を強姦の末、殺害した過去があったことを知る。だが彼は未成年であり、犯行当時心神喪失状態にあったとして刑法第三十九条により裁かれてはいなかった。その事件に注目した香深は、少女の家族でたったひとりの生存者である兄・工藤啓輔の行方を追って、刑事の名越と共に門司へ飛んだ。そこで香深は工藤啓輔とその妻の実可子(山本未来)と会うも、しかし柴田が本当の工藤啓輔でないかと疑いを強める。果たして、香深の読み通り門司の工藤啓輔は贋者だった。実は、今回の事件は柴田こと工藤啓輔が恋人の実可子と共謀して、殺された妹の復讐を果たしたのだ。全ては用意周到に準備され、工藤は刑法第三十九条を逆手に取り、心神喪失で無罪になる筋書きを書いていた。しかし、結局彼らの計画は香深によって全貌が明らかにされてしまう。法廷で工藤は訴える。「私が本当に凶器を突き刺したかったのは、刑法第三十九条だった」と。
多彩なカメラワークと銀残しと呼ばれる固い色調の画質…現代社会の矛盾のひとつである刑法第三十九条がもたらす歪みを題材とした本作。描き方によっては社会派サスペンスになりがちなテーマを森田芳光監督は見事にエンタテインメントとして仕上げてしまった。高瀬比呂志の常に揺れ動いたり移動するカメラワークひとつひとつに意味を感じ、まるで生き物のように離れた場所から主人公の姿を追う。鈴木京香演じる主人公が動揺するとカメラがブレたり、出演者たちの心の動きに符合してカメラがシンクロしているのは並の技術では不可能だ。ここに森田監督のこだわりとスタッフのプロ根性を感じるのだ。この映画全体を人間の心理や精神状態そのものとなっているのが森田監督の狙いだとしたら…その感性はやはりただ者ではない。
精神が通常にない者は犯罪を犯してもコレを罰する事が出来ないという法律に真っ向から勝負を挑んだという本作。刑法だけではない、収容する精神病院の社会的責任、裁判所の在り方等に疑問を投げかけている。近年、世間に衝撃と戦慄を与えた神戸児童殺人事件の犯人―酒鬼薔薇聖人―が社会に出て来たという。精神障害や未成年という壁に対して遺族はやり場の無い怒りをどこにぶつければ良いのか?森田監督は、この刑法にもうひとつのテーマを入れ込んでいる。それは、復讐という私的な処罰だ。堤真一演じる主人公がある殺人事件で逮捕されるところから物語は始まる。証拠も全て揃っており、警察の取り調べも順調に終わる。従来のサスペンスならば真犯人が登場するところなのだが…樹木希林演じる弁護士が接見したところで内容が一転する。突然、白目を剥き出して人格が変わったかのようにあざ笑う堤真一の表情は鳥肌が立つほどだ。二重人格という分裂症の疑いがある犯人を中心に裁判と精神分析という二つの舞台で物語は展開していく。面白いのは森田監督のキャラクター設定…精神科医の鈴木京香は終始モゴモゴつぶやき、同じ精神科医の杉浦直樹も紙コップの淵を丸める癖を持っていたり、弁護士も検察もかなり癖のある人間として描かれている。よく裁判映画にありがちな滑舌の良い人物は一切登場せず、これじゃどっちが精神病なんだか分らなくなる。実は、これが森田監督の狙いだったような気がする。人間なんて一見しただけでは誰が普通で誰が変わっているのかなんて解りっこないのだ。“家族ゲーム”では周囲を取り巻く音を拡大したのと同様に森田監督は、本作では癖をクローズアップする。
観ている内に観客も混乱してくるのは、こうした癖のある登場人物たちの中にいる事で、犯人の堤真一が逆にノーマルに見えるのだ。これがある種のパラドックスを生み出し、様々な状況設定を幾重にも連ねる事で単純な事が複雑怪奇に思えてくる。そして、それがとてつもない計算の中で行われていたというクライマックスの法廷シーンはあまりの見事さに惜しみない拍手を贈りたくなった。過去と現代という時間軸の縦線が明らかになったおかげで裁判のリセットという形で物語は終焉する。いわれなき殺人の前で大切な人を失った家族にとって、このようなリセットはあり得ない。で、あれば殺人を犯した精神障害者や未成年者に対して社会は次の段階でどうすべきなのか…?本作の問いかけに対して未だに結論は出ていないのだ。
「僕が凶器を突き刺したかったのは、この理不尽な法律に対してだ」全てが白日の下に曝された時に被告人が裁判官に向かって言う言葉。我々はテレビで様々な理由からあまりにも軽い刑がなされた事を聞く度に、同様に法への矛盾を感じる。
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