映画が始まる…黒い画面上に線が四角く引かれ、その中に表れる“A MOVIE”という文字。大林宣彦監督の映画のオープニングは、いつも心憎いまでに映画ファンのワクワク感を煽り刺激する。私が大林宣彦監督と出会ったのは、長編デビュー作『ハウス Hause 』からだ。まだ小学生だった私は自主映画の名作と誉れの高い『伝説の午後〜いつかみたドラキュラ』の存在は勿論、知る由もなく、単純に出演者の一人デビューしたての大場久美子を観たいがために劇場に足を運んだわけだ。物語は、仲良し7人組みの女子中学生たちが、主人公の伯母が住む屋敷に泊まりに行くのだが、実は伯母さんは既に死んでいて、屋敷全体が伯母さんの亡霊に乗っ取られており、家が少女たちを襲うというものだ。かいつまんで説明すると、アメリカのホラー映画と何ら変わり映えがしないのでは…?と思われがちだが、それは大間違い。大林監督の作り上げた世界は、それまで観たことがないファンタジックな映像美で構成(スプラッターファンには物足りないかも?)されているのだ。例えば、大場久美子が井戸から冷えたスイカを引き上げるシーンでのこと。(実は、スイカではなく最初の犠牲者の生首なのだが…)背景に映し出されるホリゾンに描かれた夕焼け空の美しさ。リアルな夕陽よりも合成で作り出した物が美しい事だってあるのだ…と生意気にも小学生だった筆者は、ニセモノの美学という持論を打ち立てていた。また屋敷に行く途中にある小林亜星が主人をしているスイカの露天商が一瞬にして骸骨となってしまうファンキーさ。矢継ぎ早に登場する摩訶不思議な映像に、すっかり酔いしれた私は、一気に大林監督のファンになってしまった。その後、大林監督は手塚治虫の名作“ブラックジャック”の一編『瞳の中の訪問者』と、横溝正史の名作“金田一シリーズ”のパロディ『金田一耕助の冒険』(日本版“カジノロワイヤル”を狙った?)、そして、薬師丸ひろ子の代表作でSF作家・眉村卓の名作『ねらわれた学園』といったあまりにも有名な原作物の映画化に着手する。実は、これら3作品…一部の熱狂的なカルトファンから「原作のイメージと違いすぎる」という反発があった。しかし、あくまでも視覚的な面白さにこだわった大林監督の映像表現は常に斬新であり自らを“映画監督”ではなく“映像作家”と名乗っている事からも分かるように、原作をなぞるのではなく、小説(あるいは漫画)から映画をあえて切り離しているのではないだろうか。それ以降作られた作品群を観ても、全てにおいて大林監督のエッセンスが加わっているのが確認できる。それ以上に、横溝正史ブームのド真ん中に『金田一耕助の冒険』といった金田一のパロディ映画をぶつけてくるのだから、それだけでも大林監督は、徒者ではない。また、大林監督は“日本映画=日本が舞台”という構図を敢えてぶち壊そうとしてるようにも思える。まぁ、元々“ブラックジャック”自体、無国籍な話ではあるが、『ハウス Hause』と『瞳の中の訪問者』は明らかに意図的に日本であって日本ではない世界を作り上げていた。また『ねらわれた学園』は紙芝居の如く場面がめくられるように展開してゆくのが楽しかった。さらに日本の高校にアメリカのキャンパスライフ的な要素を取り入れ、途中ミュージカルみたいなシーンも出て来たり、実は“ハイスクール・ミュージック”の原点なのではなかろうか。また大林監督は、空を自然なままに表現せず、不自然なまでに雲の動きを早回ししたり、絵の具で塗りたくったような色にする等のオプチカル合成を好んでする。前述した『ハウス Hause』の夕日も然り、『ねらわれた学園』の学校上空を奥から手前に流れてくる暗雲などの色彩は実に見事だ。
こうしたポップアートを取り入れた斬新な映像を次々と輩出していた大林監督だが…ある作品からそれまでの作風と違った側面を見せ始める。古里・尾道を舞台として、日本の原風景にこだわった日本映画史に残る屈指の名作『転校生』を筆頭とする尾道三部作だ。そこから大林監督の名は“大林映画”として、映画のジャンルに位置付けられるようになるのだが、これら三部作は単なるノスタルジックな映画に留まるのではなく、失われていく物(者)たちへの鎮魂歌的な作品となっているのが共通している点だ。例えば、『廃市』(原作:福永武彦)と『異人たちとの夏』(原作:山田太一)は原作があるにも関わらず、主題となるテーマは同じところにあると思う。前者は時代に置き去りにされたようないくつもの水路が走る町、後者は子供の頃に失った両親との時空を超えた再会を果たす下町だ。両作品の共通点は『廃市』の舞台となった町は大火事によって焼失され、『異人たちとの夏』のラストでは死びとである両親と再会したアパートは取り壊されていた…すなわち失われたもの(過去)との訣別だ。意外な事にSFホラーコミックの名作『漂流教室』もまた荒廃した未来にやって来た子供たちが過去と訣別して“その場所”で生きていくドラマだった。ニューカレドニアを舞台として古き良きハリウッド調(コロムビア映画調?)のオープニングが印象的な『天国に一番近い島』も亡き父への想いを断ち切れない少女が、父が話していた島を探しながら成長していく姿(それはすなわち父との決別を意味している)を描いている。そして、石田ひかり主演の『はるかノスタルジー』では、勝野洋演じる中年の小説家がかつて住んでいた小樽で封印してきた過去と向き合うまでが物語の核となっていた。戦後の売春街で若き主人公が体験した出来事、娼婦だった母と酒に溺れて死んでしまった父…そこで出会った可憐な少女への想いと絶望が主人公の心を大きく揺さぶる。若き日の主人公が現れて現在の主人公と対話するのは『さびしんぼう』を彷彿させる。過去と現在が交差する劇中、現在に生きる石田ひかりが勝野洋に向かって訊ねる「忘れなければならない事と始めから知らない事とどっちが幸せなんですか?」というセリフに全てが集約されていた。そうなのだ…一貫して大林監督作品の根底にあるのは“過去に対してどう向き合うか”なのだ。立ち止まっていた主人公たちは、そうした訣別をする事で初めて前に進む事が出来る。正に『ふたり』や『あした』は過去を引きずり先へ進めない人間が主人公だった。大林監督もまた『あの夏の日、とんでろじいちゃん』を最後に尾道から大分県の臼杵に舞台を移し、映画作りにおいて“過去と訣別”して新たな一歩を踏み出す事となる。
臼杵篇『なごり雪』『22才の別れ』以降から作品の中に“死”という概念が主題として描かれるようになる。上記二作品とも高度経済成長期に生まれ熟年から壮年にさしかかった主人公が“死”を意識するセリフを発するのが興味深かった。(このセリフに共感した同世代の人々も多かったのではないだろうか?)共に伊勢正三の名曲をモチーフとしたオリジナルドラマだが『22才の別れ』で筧利夫扮する主人公が「俺たちの世代は21世紀が来る前に20世紀の終わりに滅んでしまうと思っていた。」と言うセリフがノストラダムスを信じ込まされていた世代(1960年代症候群というらしい)にとって妙なリアリティを持っていた。この二作品が人生の折り返し地点にさしかかった中年男性が“死”を意識していたのに対して『転校生さよなら、あなた』ではまだ人生これからという若い高校生の男女に“死”という難題をぶつけてきた。続く『その日の前に』では優しい家族に恵まれた女性が癌に冒され残り少ない最後の人生をどう過ごすか?が描かれている。この二作品は概念ではなく現実に“死”が迫った主人公たちがどう“死”と向き合うか…言い換えれば、どう“生きるか”がテーマとなっている。今一度、大林監督作品を振り返ってみると、どの作品においても人間の根本にして避けられない“生”と“死”が常に存在しており、だからこそ大林映画の登場人物たちは人生を謳歌し、愛する人に全身全霊で愛情を注ぐのだ。
残念ながら『彼女の島 彼のオートバイ』や『女ざかり』『理由』など語り切れていないが今回はここまで…いつか必ず大林宣彦監督特集PART3を組みたいと思う。
昭和32年頃、映画を作る資金稼ぎのために広告会社のアルバイトをして商店街のPR映像を作っていたのが大林宣彦監督の原点である。テレビが普及する以前、小さな街の商店街に必ず一館はあった映画館で流されていたPR映画の制作を仲間と一緒にやっていたという。(その中の一人が大林夫人でありプロデューサーの大林恭子)当時の広告映像は社会的地位が低く、「広告は将来を夢見る若者の仕事ではない、広告屋は落ちこぼれた人間だと思われていた時代でもありました」と後に大林は講演で述べている。大林は、昭和39年に行われた新宿紀伊國屋ホールのオープンイベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画。このイベントに出品した『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』を観ていた電通のプロデューサーに誘われ、草創期のテレビコマーシャルにCMディレクターとして本格的に関わる事となる。CMは“おトイレタイム”といわれ、クリエイティブの世界ではまだ地位が低かった時代、こんなことでは未来がないと考えた電通が、CMに演出家をつけてみたら…と、声をかけたところ、「CMなんて」と鼻にもかけない仲間の中で唯一、大林のみが参加の意向を表明。(理由は東宝の撮影所で撮れるから)その後、テレビの普及で企業が広告費にお金をかけ始め、金のかかる特撮も自由に撮らせてもらえるようになる。大林にとってCMはスポンサーつきの個人映画、映像実験室ともいえ、非常に楽しいものだったという。大林の手がけたCMは、日本で初めてハリウッドスターを起用した伝説のCM(あまりのヒットに社名を変更したほど)チャールズ・ブロンソンの「マンダム」。そして、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ「ホンダ・ロードパル」のソフィア・ローレン、「カネカ・フォンテーヌ」「ラックス化粧品」のカトリーヌ・ドヌーヴ、「レナウン・シンプルライフ」のリンゴ・スターなど、現在に続く海外スター起用CMの先駆けとなった。チャールズ・ブロンソンが起用されるに至った経緯について有名な話がある。当時の丹頂の社長が、大林夫婦を食事に招待したおり、ごく自然に夫人にサラダを取り分ける大林に感銘を受け「この人物ならわが社の広告を任せていい」と決心したといわれている。その後、高沢順子の「お魚になったわたし」、山口百恵・三浦友和コンビの「グリコアーモンドチョコレート」、高峰三枝子・上原謙の「国鉄フルムーン」、森繁久弥の「国鉄新幹線」、若尾文子の「ナショナル浄水器」、「レナウン・ワンサカ娘」、「カルピス」など、10年間で製作したテレビCMは2000本を越える。大林宣彦はテレビCMを新しい映像表現にまで昇華させた先駆者なのだ。(参考資料「文化としてのテレビ・コマーシャル」より抜粋)
大林 宣彦(おおばやし のぶひこ)NOBUHIKO OOBAYASHI 1938年1月9日生まれ。
広島県尾道市東土堂町で代々続く医家の長男として生まれる。3歳の時、自宅の納戸の中で見つけたブリキの活動写真機と、戦争中ゆえ弦が供出されて音が出なかったピアノとの二つの出会いが生涯を定めた。この時、フィルムに絵を刻んで作ったアニメーション『マヌケ先生』をもとにして後に三浦友和主演でテレビドラマ、映画が制作される。18歳で上京し、慶應義塾大学医学部を受けるも、受験を途中で放棄して「医者になるつもりはありません。ぼく映画を作るよ」と父に告げ、浪人生活を経て、1956年に成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学。在学中から8mmで作品を発表。1960年に大学を中退し、1963年に初の16mm作品『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。『尾道』、『中山道』、『食べた人』、『Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道』、『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』などがアングラブームに乗って反響を呼ぶ。1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画し、1960年代からは草創期のテレビコマーシャルにCMディレクターとして本格的に関わる。大林の手がけたCMは、チャールズ・ブロンソンの“マンダム”、ラッタッタのかけ声で話題を呼んだ“ホンダ・ロードパル”のソフィア・ローレン、“ラックス化粧品”のカトリーヌ・ドヌーヴ、などを起用して海外スター起用のCMの先駆けとなった。10年間で製作したテレビCMは2000本を越え、テレビCMを新しい映像表現として確立したとされる。
1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。ソフト・フォーカスを用いたCF的映像、実写とアニメの合成など、さまざまな特撮を使って見せる華麗でポップな映像世界は世の映画少年を熱狂させた。1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。『時をかける少女』、『さびしんぼう』と合わせ"尾道三部作"として多くの熱狂的な支持を集め、ロケ地巡りのファンを増やした。また、大林はこれまで主に、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行ってきたが、特に1980年代に手掛けた作品は「80年代アイドル映画」というジャンルとしても評価される。近年は講演活動やコメンテーターとしてのテレビ出演、雑誌インタビューなども多い。2004年春の褒章に於いて紫綬褒章を受章しており、そして2009年秋の叙勲で旭日小綬章を受章した。受章理由は「長年にわたる実験的で独自の映画作りに」と伝えられたという。
(大林宣彦 公式ブログ http://fotopus.com/naviblog/ohbayashi/)
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【参考文献】
ぼくの映画人生
280頁 19 x 13.8cm 実業之日本社
大林宣彦【著】
1,785円(税込)
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【参考文献】
A MOVIE・大林宣彦 ようこそ、夢の映画共和国へ。 (シネアルバム)
223頁 21 x 14.8cm 芳賀書店
石原良太、野村正昭【編集】
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