大林宣彦監督の映画はファミリー映画(ジャンルの意味ではなく大林家族で作っている)だと思う。大林監督の長編メジャーデビュー作『HOUSE ハウス』のアイデアも長女千茱萸(当時12歳)がお風呂上がりに言った「この鏡の私が襲って来たら怖いね」の一言からヒントを得ているというのは有名な話だ。だからだろうか…大林監督のどの作品にも家族の温かさが感じられる。家族の崩壊を描いていても目には見えない父親と母親の愛情を娘や息子はしっかりと感じ、夫婦は最後までお互いを思いやる…そんな映画が多い。そして、『HOUSE ハウス』の成功で一気にメジャーに躍り出た大林監督を内から外からずっとサポートしプロデュースし続けてきたのが大林恭子その人だ。成城大学時代に大林監督と出会ってから、映画のみならずCM時代から良きパートナーとして製作に携わっており、『転校生』から本格的にプロデューサーとして参画している。ナルホド…大林監督の描き出す世界が愛情に満ち溢れているのは恭子夫人との二人三脚があったからこそではないだろうか?『転校生』以降、全ての作品にプロデューサーとして名を連ねてきた恭子夫人は『あした』のパンフレットでこう述べていた。「思えば、監督と出会った時から、私にとっての映画生活時間は始まりました。一緒に映画という夢を見ることにしたのです」その後に続く「その夢は果てしなく人間の魂に呼びかけてくる不思議な偉大な力を持っているのです」という言葉に私は深い感銘を受けると共に、あぁ…大林夫婦は同じ方向に向かってずっと歩んでいたのだな…と思った。ギリギリの予算で製作した『転校生』では、突然スポンサーの降板というアクシデントに「とにかく関係者に迷惑をかけてはならない」と新しいスポンサー探しに奔走し、何とか撮影が始まっても尾道ではスタッフ・出演者たちの炊き出しから洗濯に至る身の回りの世話を一手にこなしていたという。大林監督の才能を信じ、同じ夢を一緒に見ようと思ってから、『時をかける少女』『さびしんぼう』を生み出し、いつしかそれが尾道三部作として伝説になったのは恭子夫人のサポートが大きな役割を担っていたに違いない。
恭子夫人が幼い頃に出会った『若草物語』と『風と共に去りぬ』が人生に大きな影響を与え、映画を作る側となっても尚、大切な作品として挙げられている。そう言えば大林監督作品にはMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)映画的な古き良きハリウッドを彷彿させる作品が多いのはそのせいだろうか。原田知世主演のニューカレドニアを舞台とした『天国に一番近い島』のオープニングは正にこってりしたメトロカラーであった。『あした』はUA(ユナイテッドアーチスト)かな?その中に必ずあるのは“家族(兄弟)愛”や“夫婦愛”だ。勿論、恭子夫人がプロデューサーとして大林監督の絵作りに対し、どこまで進言しているのかは定かでは無いが、どうやら『なごり雪』のパンフレットに書かれているコメントを読む限りでは、大林夫妻の感性はかなり近いところにあると思われる。(そうでなければ映画制作のパートナーとして、これだけの作品を残せなかったであろう)舞台となる大分県臼杵市を訪ねた時、先人たちが残した日本の美しいものを守っている町を見て“臼杵を舞台にした映画を撮りたい”と思ったところ大林監督も同じ事を考えていたという。戦後失ってしまった日本人の心と文化を受け継ぐ臼杵を映画の中に収める事が映画人としての役割であるかのように…。
2003年6月3日、東京丸の内のパレスホテルで、毎年功績著しい活躍をした映画製作者を中心に授与されている第二十二回「藤本賞」特別賞が大林恭子プロデューサーに授与された。これは、映画プロデューサーにとっては、最も崇高で名誉ある賞と言われており、過去の受賞者は角川春樹や山田洋次、徳間康快といった錚々たる顔ぶれが揃っている。受賞にあたる「大林宣彦監督の公私にわたるパートナーとして全作品の企画から上映に至る全過程を支えてきた」というのが理由に挙げられている他、前年に公開した『なごり雪』の製作に対する功績が認められたものだ。『なごり雪』は、大分県を皮切りにプロデューサー自らが地方を巡りながら自主上映という形で順次公開している。莫大な宣伝費を投下して全国公開するのではなく、ひとつひとつ丁寧な上映活動を行った結果、口コミで評価が広がり多くの観客を動員したというのは、臼杵を舞台に映画を作ろうと決めた時の初心の表れだと思う。まさに、『なごり雪』のパンフレットに寄せている「時代は移り変わっても人々の感性は変わるものではない」という言葉を裏付けている出来事ではないだろうか。
大林 恭子(おおばやし きょうこ)KYOKO OOBAYASHI 1939年生まれ
株式会社ピー・エス・シー代表。18歳で大林宣彦監督と出会って以来、8ミリ、16ミリの自主映画を始め、全ての大林作品のパートナーとして携わっている。1980年の『転校生』以降は正式なプロデューサーとして作品に関わり、『時をかける少女』『さびしんぼう』と続く尾道三部作をプロデュース。多くの大林映画ファンを生む。また、福永武彦の純文学『廃市』をプライベートな16ミリ映画として完成させたり、佐藤春夫の“わんぱく時代”から意欲的実験映画『野ゆき山ゆき海べゆき』を発表している。途中、製作中止になりかけた映画も多いが、持ち前の明るさと当人曰く「人に恵まれる強運」のおかげで苦境を乗り切ってきた。パートナーとしての製作者や協力者に恵まれ、それを何よりの財産と感謝している一方で、撮影現場ではスタッフやキャストのおかあさんとして慕われ、特にロケーション撮影時には、その土地の人々との交流を深め、現場の潤滑油になっている。2003年には『なごり雪』の製作に対する功績と半世紀近くにわたっての映画活動が讃えられ、第22回「藤本賞」特別賞を授賞している。 (パンフレット『青春デンデケデケデケ』より一部抜粋)
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