緋牡丹博徒 一宿一飯
お竜でござんす 女だてらに 上州ゆさぶるつむじ風 たった今、我慢のドスを抜きやした
1968年 カラー シネマスコープ 95min 東映京都
企画 俊藤浩滋、日下部五朗 監督 鈴木則文 脚本 野上龍雄、鈴木則文 撮影 古谷伸
音楽 渡辺岳夫 美術 石原昭 録音 溝口正義 照明 増田悦章 編集 宮本信太郎 スチール 藤本武
出演 藤純子、鶴田浩二、若山富三郎、待田京介、村井国夫、菅原文太、城野ゆき、白木マリ
山城新伍、玉川良一、小島慶四郎、天津敏、遠藤辰雄、西村晃、水島道太郎

「産業スパイ」の野上龍雄と、前作「緋牡丹博徒」の鈴木則文が共同でシナリオを執筆し、鈴木則文自らがメガホンを取った“緋牡丹博徒”シリーズ第二作。前作の撮影が7割がた終了した頃に続編の話しが持ち上がりシナリオの準備に入った野上の出したベースは「秩父事件」であった。霜害のため桑畑が全滅した農民たちは高利貸しの毒牙に食い荒らされ、ついに隆起したという事件がベースとなっている。ロケハンで農民たちが隆起した神社の境内を訪れた鈴木監督は、かつてここに集まった農民たちの思いを察し、本作のオープニングとなった。前作が好評だったため、「1作目で入り切らなかった藤純子用名場面集を全てぶち込んでみた」と鈴木監督は後に語っているほど数々の見せ場が多い。その中でも敵の親分に陵辱された娘をお竜が肩の刺青を見せて諭すシーンは任侠映画史上の名場面として知られているが、このシーンでお竜が言うセリフ「肌に墨は打てても、心には誰も墨は打てない」は、鈴木監督が東映に入社した頃に起きた「砂川闘争」の際、反対派のプラカードにあった「土地に杭は打てても心に杭は打たれない」という言葉にヒントを得たものだった。藤純子が片肌を脱ぐシーンは本作が最後となった。前作と同様、撮影は古谷伸。メリハリの利いた映像は藤純子の魅力を余す事無く伝えている。

不作に苦しむ上州の農民たちが、高利貸倉持に苦しめられていた明治時代中期。農民たちは厳しい取り立てに暴動を起こしかけていたが、戸ヶ崎組の親分が農民たちをなだめ事態収拾を約束した。しかし、戸ヶ崎親分の舎弟である笠松(天津敏)はひそかに倉持と結託、上州一帯の生糸の総元締会社設立を図っていた。この取引を知った戸ヶ崎は、笠松のやり方に怒り、笠松一家に殴り込みをかけようとしていた。笠松の賭場を荒らしていた女賭博師おれん(白木マリ)を見事な手並みで勝ちを止めた、戸ヶ崎の客分緋牡丹のお竜(藤純子)は、親分の考えを察し、自分も手助けをしようと進言するが、四国の熊虎(若山富三郎)一家に書状を送るという使いを頼まれ、戸ヶ崎が殴り込みをかけ、笠松一家によって全滅したのを四国で知る事となる。お竜は急ぎ上州に戻ったが、既に上州一帯は笠松一家の勢力圏になっていた。戸ヶ崎親分の娘まち(城野ゆき)と結婚して戸ヶ崎組の跡目を継いだ勇吉(村井国夫)は単身、笠松一家に殴り込みをかけるが、お竜は間一髪勇吉を救い出した。笠松は邪魔なお竜を消そうとして襲ったが、一匹狼周太郎(鶴田浩二)に阻まれた。戸ヶ崎組の経営する郵便馬車の権利を手に入れようと画策する笠松は、まちを脅し権利書を手に入れてしまう。さらに笠松組に殴り込んだ勇吉は、逆に殺されてしまい、遂に堪忍袋の緒が切れたお竜は、周太郎とともに笠松を倒すのであった。

個人的な意見だが、シリーズ映画の中で2作目は、当時の評価はたいてい低いものだが、後年になってから評価が高まる傾向にあるように思える。事実、2作目のグレードは結構高いにも関わらず、評価がイマイチなのは、どうしても1作目のインパクトと比較されてしまうからだろう。しかし、2作目はスタッフ、出演者共に前作以上の良いものを…という意気込みで挑んでいるのだから、前作とは毛色の全く異なった個性ある作品が生まれる事が多い。そして、『緋牡丹博徒』シリーズの2作目に当たる本作も、お竜さんの生みの親(オリジナルの脚本を書いた)鈴木則文が自らペンとメガホンを取った事からも、その意欲がうかがえるであろう。
前作では、東映任侠映画初のヒロイン渡世人ということで、痛快さを前面に打ち出したため、本来主人公が持っている女性としての苦悩や思いを描き切る事が出来なかった。鈴木則文でしか分らないお竜という人間像(と、いうよりも女性像)…彼女が女を封じた苦しみや哀しみを、本作で一気に描き切ってみせたのだ。主人公の苦悩が前面に押し出されたため、作品を包むトーンが前作に比べて暗くシリアスなものになってしまったのは仕方が無いのだが、むしろそれがシリーズにメリハリを生む結果となった。特に、お竜が敵の親分に陵辱された戸ヶ碕一家の一人娘に自らの肌に刻み込まれた緋牡丹の刺青を見せて、自分が墨を打って女性である事を封印した哀しみを語り、彼女を立ち直らせようとするシーンはシリーズ屈指の名場面となった。本作を最後に自らの肌を見せる事をやめた藤純子だが、本作におけるこのシーンは迫真の演技を披露しており、シーンの途中で本物の涙を流したというほど感情を込めていた。そしてラストシーンで死んで逝った人々への弔いをするかのように誰もいない境内の櫓の太鼓を涙を流しながら叩く藤純子の姿はシリーズ屈指の美しさを秘めている。
女を描く…それを今回のテーマに選んだ鈴木監督は、本作ではお竜と前述した、敵の親分に犯されてしまった戸ヶ碕一家の一人娘まち以外にもう1人…博徒の世界に生きる女性の姿を描いている。かつて大きな一家の親分の嫁として入るはずだったが、西村登演じる現在の亭主と一緒になった女賭博師を演じた白木マリだ。面子を潰された親分は亭主にリンチを加え、男としての機能を奪ってしまう。亭主と共に旅を続け、各地の賭場を点々として生計を立てている。ある意味、女としての生き方を全うしている存在と言っても良いだろう。夫に誓いを立てながらも、行く先々で親分に体を提供しなくてはならない苦しみ…天津敏演じる親分に体を預ける前に亭主自らが体を洗ってやるシーンは何とも言えない感慨深いものがある。
このように、本作は脇に廻った男優人たちが光っている。特に妻を抱く事すら出来なくなった不遇の夫を演じた西村登の演技は最高。天津敏演じる悪の親分に身を与えなくてはならない妻であり賭博師であるおれんの体を洗ってやる男の悲哀…古谷伸のカメラは西村登だけをクローズアップで捉える。それは、妻に依存しなくてはならない夫となってしまった自分を責めている表情であり、時には妻の肩に顔を埋め時には組員にリンチを加えられている妻を歯を食いしばりながら見ているしかない…。東映の任侠映画には珍しいキャラクターだけに高度な演技力(というか、苦悩する顔の表現力)が要求されたであろう。そして、もう一人は悪の親分についている子分を演じた菅原文太。やはり、主役を張れるスターが悪役を演じると、殊の外凄みが増してくる(スターウォーズのボバ・フェットみたいな魅力がある)。鶴田浩二と並んでも決して引けを取らない堂々たる悪役ぶりに思わずカッコいいと唸ってしまうのは仕方が無いだろう。
「イカサマだらけのアタシにとって、本当なのはこの人だけ」女賭博師おれんが、代わりに制裁を受けた夫をお竜に紹介するシーンのセリフ。このセリフでお竜は、女の幸せをおれんの中に見い出し、二人を助けるのだった。
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